慶長十一年(1606年)幕府の手で社殿の大造営

(1606年)

慶長十一年(1606年)、大久保長安を奉行として、総社六所宮が、再建されました。
それ以前、天正十八年(1590年)、小田原北条家が秀吉に滅ぼされる際、八王子城も落城。ときの神主猿渡盛正もそこで戦死。さらには、総社六所宮もその影響で、ことごとく焼失。書類はすべて灰燼に帰したので、当時の様子が全くわからない、とされています。

慶長十一年の造営の記(武蔵総社誌下巻に、家蔵と記載あり)に、「神輿舎一宇、神輿八基」とあります。場所は今の松尾神社の当たりに。それ以前、神輿が八基あったから、再興されたと考えるのが自然です。

ただし、慶長の造営記録を見ると、それらしきものがないんですね。

判断が難しいところです。

(平成31年1月13日加筆)
上記は、どうやら、記載ミスのようです。「神輿舎一宇、神輿八基」は、寛文七年社殿造営の際の記述です。
慶長十一年の造営の記には、以下が記されています。

本宮正殿一宇 桁行京間三間 梁間三間 朱塗 檜皮葺 唐破風
東正殿一宇 同上 唐破風無
西正殿一宇 同上
端垣 囲正殿之四方合五十八間朱塗
本宮中門 又日端垣門開九尺七寸五分朱塗
東殿中門 開六尺五寸朱塗
西殿中門 同上
幣殿一宇 又日祝詞舎桁行京間三間 梁間三間 朱塗 椽葺
拝殿一宇 桁行京間三間梁間六間 朱塗 椽葺


端垣=玉垣
椽=たるき
幣殿=神社で、参詣者が幣帛(へいはく)をささげる社殿。拝殿と本殿との中間にある

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