宮本顕治が日共の委員長に就任

(1970年07月)

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宮本が書記長を務めていた1950年代から60年代にかけての時期、
日本共産党は朝鮮労働党と友好関係を結んでいた。

戦前のコミンテルン時代には「一国一共産党」の原則があり、
当時日本の植民地であった朝鮮半島や台湾も日本共産党の活動範囲とされた。

この時の名残もあり、
戦後朝鮮民主主義人民共和国が建国された後も日本に残った在日朝鮮人の中には、
日本共産党員となる者が多数いた。

彼らは1955年の在日本朝鮮人総聯合会結成と同時に事実上移籍する形で共産党を離れるが、
その後も共産党と朝鮮労働党の間には総聯を通じた交流関係があった。

宮本は1966年(昭和41年)、
北ベトナムと中華人民共和国、北朝鮮の三国を訪問する。

2番目の訪問先となった中国・上海で
中華人民共和国主席毛沢東との会談に臨むが、
この席上毛は日本共産党の活動を「修正主義だ」と批判、
当時始まったばかりだった文化大革命の路線に日本共産党も従うよう求めた。

宮本は毛の発言を六全協、さらに第7回党大会で
自身の手によって完全否定していた所感派を中心とする武装闘争路線の復活につながる
と受け取った。

そして毛の意見を受け入れることはできないどころか、
中国、ソ連への追従によって一度は壊滅的打撃を受けた
過去の反省からも党としての関係を断つべきと宮本は判断する。

日中両党関係は完全に決裂、
宮本が議長を引退した翌年の1998年(平成10年)、
後を継いだ不破哲三が
「中国共産党側が過去の誤りを認めた」と述べて和解するまで
30年以上も交流が断たれた。
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