【岩崎弥太郎】上海航路を開く。

(1875年)

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台湾出兵にあたって
13隻の政府船を委託された三菱は、
問題が片付いた翌明治8(1875)年、
横浜・上海間に航路を開いた。

https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro13.html

弥太郎が最初に政府から命じられたのが、
綿花の輸入を主目的とした
横浜-上海定期航路の開設である。

上海は欧米列強の東洋の拠点で、
日本にとってそれは
世界に通じる最重要ルートだった。

ここに立ちはだかったのが、
先のPM社と
英国の名門船会社P&O社(Penninsula & Oriental Steam Navigation)である。

たちまち値下げ競争が起こり、
三菱は満身創痍となりながらも、
政府のバックアップや三菱銅山の好況を背景にこれに打ち勝ち、
米英の両社とも上海航路から撤退、
日本は初の航海自主権を手にした。
その後、三菱の対抗会社として
明治政府は共同運輸を設立。

両社はすさまじい競争を演じたが、
日本海運全体の衰退を懸念して競争の停止を合意し、
協議の末、両社が合併して新会社を設立することとなった。

1885年(明治18年)9月29日、日本郵船の誕生である。

https://web.archive.org/web/20071028110710/http://www.net-ir.ne.jp/ir_magazine/pioneer/vol050_9101.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/日華連絡船

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