旧 虫プロ 設立

(1961年06月)

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手塚はこれ以前に、
東映動画嘱託として
アニメ制作に携わったことがあり、
その経験と人脈を生かして
プロダクションを立ち上げた。

少年期からディズニー映画を愛好していた手塚は
もともとアニメーションに強い情熱を持っており、
アニメーション制作は念願の仕事であった。

漫画家になる前の1945年の敗戦の年、
手塚は焼け残った松竹座で
大作アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、
このときに
自分の手でアニメーション映画を作ることを決意したという。

手塚にとって漫画は
アニメ制作の資金を得るための手段だった。

評論家の大宅壮一から
「阪僑」の一人と評されるほど蓄財に走った。

自らを「ディズニー狂い」と称した。

スタッフの給料から制作費まで
すべて手塚の原稿料で賄い、
1年かけて40分のアニメーション『ある街角の物語』を制作、
この作品でブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など
数々の賞を受賞する。

動画部は1962年より「虫プロダクション」に改名し、
続いて日本初のテレビアニメシリーズ
『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。

しかし10名に満たないスタッフでは
ディズニーのようなフルアニメーションを
毎週行なうのは不可能であり、
必然的に絵の枚数を最低限にする
リミテッドアニメの手法を取ることとなった。

後にこのリミテッドアニメの手法が
日本アニメに大きな影響を与えることとなる。

リミテッドアニメを用いても
1本2000枚分の動画を動画家5名で担当し、
一人1日66枚を仕上げるという
苛酷な労働状況が作られることとなった。

また作品を
1本55万円という破格の製作費で売り込んだことが
制作部の首を絞めることになった。

手塚がアニメの値段を安くつけたのは、
当時のテレビ劇映画の制作費が50万程度であったことと、
それだけ安くすれば他のプロダクションが
アニメに手をつけないだろうという考えからであったが、
手塚自身が「大失敗だった」と認めるように、
これは大きな誤算となった。

『鉄腕アトム』のヒットを受けて
低予算のテレビアニメが
次々と作られていくことになったのである。

さらに、当初経営の苦しかった虫プロは
『鉄腕アトム』の版権収入などで
利益を上げるようになると巨大化し、
次第に手塚自身でも制御できない状態になっていた。

『鉄腕アトム』の4年間の放映のうち
手塚の原作があったのは最初の1年半だけで、
スタッフが担当したその後のストーリーは
人気を得るために戦いばかり描かれるようになり、
手塚が好むアニメーションらしいユーモアが失われていった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/虫プロダクション

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