ベトナム派兵が決定

(1965年08月13日)

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1961年11月、
クーデターで政権を奪取した朴正煕は
訪米し、ケネディ大統領に
軍事政権の正統性を認めてもらうことや
アメリカからの援助が減らされている状況を
戦争特需によって打開することを意図して
ベトナムへの韓国軍の派兵を申し出た。

ケネディ大統領は受け入れなかったが、
ケネディが暗殺されてジョンソン大統領に代わると
1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた。

1965年から1972年にかけて韓国では

「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」

をスローガンに官民挙げての
ベトナム特需に群がり
三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。

アメリカはその見返りとして、
韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、
その他の負担分も斡旋し、
日本からは11億ドル、
西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。

また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの
貿易外特需(7億4千万ドル)や
軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって、
韓国は漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした。

ベトナムへ向かったのは、軍人ばかりではなく、
国内よりも数倍から十数倍もの高い賃金を目当てにしていた労働者もおり、
その数は1965年から5年間だけで、のべ5万人を超えていて、
「ベトナム成り金」が流行語になっていた。

静岡大学教授の朴根好は、
朝鮮戦争による特需で経済復興を遂げた日本の例に
朴政権が倣ったことを指摘している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ベトナム戦争#.E8.A5.BF.E5.81.B4.E8.AB.B8.E5.9B.BD.E3.81.AE.E5.8F.82.E6.88.A6

海外進出する上でのスケールメリットを生かすため、
韓国政府が独占取引権を付与するなどして
積極的に新興韓国財閥を育成した。

その後、国内に強権的な体制が残ることになり、
セマウル運動などを通じて農村の活性化を行ったが、
都市部への人口集中や産業構造においても
経済成長から農村や中小企業が取り残されるなどの
歪んだ形成をすることになった。

また、日本からの個人補償を
流用した事を国民に公開しなかったため、
後に賠償請求の見解の違いなどで日韓関係に禍根を残した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/漢江の奇跡

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