北里柴三郎が、ペストを発見。

(1894年)

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1. ペスト菌の発見

ペスト菌は 1894 年に
日本人の北里柴三郎が、
第3 回の世界流行のさなかである香港で発見した*19。

また同時期に、
スイス出身のフランスの医師であり、
パリのパスツール研究所の細菌学者でもあった
アレクサンダー・エルサン(Alexandre EJ Yersin)も、
香港に来て
北里とは全く独自に発見した*20。

北里(6 月 15 日日本向け電報)の方が、
エルサン(6 月 20日日記に記載)よりも数日早い。

北里は、
血清療法、破傷風菌の純粋培養など
大きな業績をあげている。

一方、エルサンは
中国と、南ベトナムのニャチャン(Nhatrang)に
パスツール研究所を設立したりして、
その後半生はベトナムの公衆衛生に貢献し、
最後はニャチャンで亡くなり、そこに墓所もある。

ペスト菌の学名は
当初ルイ・パスツールにちなんで
Pasteurella pestis と付けられていたが、

1944 年に、
エルサンにちなんだ Yersinia pestis が提唱され、
現在ではこの命名が定着している。

なぜ、Kitasato ではなく、
Yersin の名前になったのか?

北里は香港到着 2 日後にペスト菌を発見し、
動物実験を済ませ、
「ペスト菌(予報)」として
イギリスの医学雑誌 Lancet に 2 編発表した*19。

ドイツのコッホは
北里から送られた菌を培養し、
エルサンが発見した菌*20 と
同一であることを確認している。

北里の
ペスト菌の性状に関する主張は
エルサンの主張とほとんど一致しているが、
わずかに 2 つの相違点があった。

北里はグラム陽性菌、球菌と言い、
エルサンはグラム陰性菌、桿菌と言っている。

細菌学的にはエルサンが正しい。

これについては、
最終的には 1899 年秋に
神戸のペストを調査した際に
北里は自分の部分的な誤りを認めている*21。

球菌はペスト患者にも
しばしば重複感染していること、
また、培養の温度条件などによっては
桿菌よりも球菌の方が増えやすかったのが、
この相違点の原因であったのであろうと
現在では思われている。

しかし、診断などで
北里のペスト対策に対する貢献は大きいと
評価されている*22。

ペスト菌の学名については、
以上の経過が関係している可能性が考えられる。

また、第 2 次世界大戦中で
日本が世界から全く孤立している 1944 年での新名称の提唱であり、
北里には全く分がない。

香港のペスト調査団の 1 員であり、
患者の解剖を行った東大の青山胤通と、
それを手伝った北里研究所の石神亨、
香港在住の中原医師の 3 人が、
ペストに感染し重篤になった。

この内、中原医師は死亡した。

http://www.eiken.co.jp/modern_media/backnumber/pdf/MM1002_03.pdf

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