6世紀後半の日本列島に、仏教とともに天然痘が伝わる。

(1001年)

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(※この年表では、西暦1000年よりも前の日付が無効となるため、便宜的に「1001年」としてあります。)

■天然痘が引き起こした内乱

6世紀後半、
聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇の時代に、
大陸から百済をへて
日本に仏教が伝来しました。

それからまもなく、
瘡(かさ)、

現代でいう天然痘の記述が
『日本書紀』に登場します。

僧をはじめとする仏教関係者が
多数来日するなかで、
天然痘ウイルスが持ち込まれた
と考えられます。

天然痘は
急激な発熱や頭痛、
関節痛で始まる感染症で、
数日たつと
発疹があらわれます。

発疹は水ぶくれになって膿がたまり、
やがて、かさぶたに変わることから
「かさ」と呼ばれたのでしょう。

死亡率が20~50パーセントにのぼる
危険な病気で、

回復しても発疹のあとが
「あばた」として残りました。

『日本書紀』によると、
瘡にかかった人が国中にあふれ、

「身を焼かれ、
打ち砕かれるようだ」

と言い、
泣きながら死んでいった
というのですから、

まさにこの世の地獄です。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200317-00010000-php_s-bus_all

じつは、
新元号ゆかりの「万葉集」の時代にも、
古代日本で最大級のパンデミックが起きているのだ。

当時、
平城京で大流行したのは
天然痘である。

痘瘡(とうそう)ウイルスによる
この疫病の死亡率は、
かつて50%にも上った。

医史学者の富士川游(ふじかわ・ゆう)が
明治末期に書いた「日本疾病史」によれば、
天然痘が史書に初めて登場するのは735年。

大宰府から流行が始まったとする
「続日本紀」の叙述だ。

以後、1838年までに、
記録にあるだけで
58回の流行をみた。

しかし、実際には
もっと前から天然痘は
日本に入り込んでいたらしい。

たとえば、
藤原不比等の謎の死(720年)も
その可能性があるという
(酒井シヅ「病が語る日本史」)。

やがて
パンデミックの様相を呈したのが、
737年の大流行である。

不比等の子たち「藤原4兄弟」も
全員が落命し、
朝廷は機能停止に追い込まれていく。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58635570Q0A430C2SHB000/

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