【山内宏】「たくぎん21世紀ビジョン」を策定。

(1990年)

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1989年頭取に就任した山内宏が
鈴木前頭取の拡大路線を受け継ぎ、
米国のコンサルティング会社マッキンゼーに依頼したもので、
当初は「道内でのリーディングバンク」
「本州でのニューリテール(富裕層向け資産運用)」
「アジアでの海外戦略」を三本柱とするものだったが、
拓銀幹部の提案により
「企業成長・不動産開発支援(インキュベーター)」が
最終案に付け加えられた。

頭取時代に拡大路線を決定した鈴木茂会長、
80年代後半にインキュベーター路線の陣頭指揮をとった佐藤安彦副頭取、
「たくぎん21世紀ビジョン」がスタートした1990年(平成2年)に
陣頭指揮をとった海道弘司常務の3人は
「SSKトリオ」と呼ばれた。

この「SSKトリオ」が
事実上人事権を掌握し、
ワンマン体制を作り上げ、
拓銀の拡大路線を推し進めていった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道拓殖銀行

このような焦りが,1980 年代に
拓銀を無理な拡大路線へと駆り立てた。

不幸なことに,
1980年代になって
拓銀に拡大路線を採らせるいくつかの要因が重なった。

その一つが,生え抜きの 頭取の登場である。

これまで大蔵省からの天下りの頭取が続いていたが,
1962 年に就任し 1977 年 10 月に辞任するまで
16 年間にわたって頭取を務めてきた東条猛猪氏に代わり,
五味彰氏が 初めての生え抜きの頭取に就任した。

そして,1983 年4月には
引き続き,鈴木茂氏が
生え抜き 2 代目の頭取に就いた。

生え抜きの頭取が誕生したことは,
行内に自行を盛り上げようという 熱気が充満したとしても不思議はない。

東条氏はその厳格な性格ゆえに,
拓銀の融資審査に対 しても厳しさを求めた。

ところが,生え抜きの頭取が続くなかで
悲願であった「都銀最下位脱出」を目指した拡大路線が,
鈴木頭取の指揮下で鮮明になっていった 9)。

こうしたなかで,1980 年代半ばに,
「インキュベーター(新興企業新興)路線」が採用される ことになった。

後から進出した本州では
拓銀の入り込む余地は小さく,
道内の基幹産業であっ た農林水産業,鉱業,紙・パルプなどは
すでに衰退しており,
一方で新しい産業や成長力のあ る有望な企業は
道内では全くといっていいほど芽生えていなかった。

この間,本州にかなり経 営の基盤を移してきたが,
本来の基盤である北海道で拓銀が衰退したのでは
今後決定的な打撃 を受けることになる。

他の都市銀行に比べ
大手の有力な取引先が少ないため,
危機感を持った 拓銀が,
道内で新しい企業を見つけようとすれば,
どうしても新興ベンチャー企業を
自ら育てるしかない。

ちょうど時代がバブル期であったことから,
リゾート開発が大ブームになってい たので,
観光,建設,不動産といった業種が中心となった 10)。

後述するカブトデコム,ソフィアなどが,
インキュベーター路線で開発した新興企業の中心 となった。

(中略)

しかし,一般投資家をも巻き込んだ株式ブームや
不動産ブームといった本格的なバブルの発生は
道内では,日本経済の中心部から離れているがゆえに,
首都圏や関西圏よりも遅れて始まった。

1980 年代半ばにインキュベーター路線が始まったとはいえ,
やうよく拓銀が首都圏や関西圏の他行並みに
不動産融資に本格的に足を踏み入れたのは
「88 年ごろ」(拓銀幹部)であった とされる。

完全に出遅れてしまった。

その分,逆に他行よりも大胆にならざるをえなかった。

このことが,バブル崩壊後
不良債権比率を高め,
拓銀の経営破綻を招く一因となった。

こうしたバブルの末期であった 1989 年 4 月に,
山内宏氏が新しく頭取に就任した。

鈴木頭 取時代に確立した「拡大路線」は
すでに限界に近づきつつあったが,
山内頭取は路線の変更をすることなく,
同年 10 月には
経営コンサルタント会社マッキンゼーと共同で
ブロジェクトチ ームを編成し,
1 年がかりで 21 世紀に向けた経営ビジョンの策定作業に入った。

というのは拓 銀は,
次のような厳しい現実に直面して,
経営戦略の全面的な見直しをせざるをえない状況に
追い込まれていたからである。

(中略)

こうした作業を経て,
1990 年 9 月に「21 世紀ビジョン」構想が発表された。

報道陣に配付され た資料には
「21 世紀ビジョンの策定と組織改編について」
と書かれていた。

道内でのリーディング 戦略,
本州でのニューリテール戦略,
そして国際分野でのアジア重点戦略が,
その三本柱であった。

しかし,鈴木頭取時代から始まった拡大路線は生き続けた。

90 年 9 月といえば,
バブルが崩壊を始めた時期であったにもかかわらず,
「インキュベーター路線」は
その後も引き続き実行されてい った。

http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/1736/1/be415_01hattoriyasu.pdf

住友銀行など大手行の戦略策定を手掛けた
経営コンサルタント会社マッキンゼーに策定作業を依頼し、
同社から若手5人、拓銀から入行10年目前後の中堅7人がチームに参加した。

https://ichizoku.net/books/20130920/takugin-bankruptcy/

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