【中曽根康弘】「国際協調のための経済構造調整研究会」を発足させる。

(1985年10月31日)

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中曾根首相は,
首相周辺のブレーンのほか
財界人,学者等を集め,

1985年10月31日,
「国際協調のための経済構造調整研究会」
(首相の私的諮問機関)を発足させた.

座長となったのが
前川春男前日銀総裁であったため,
通称前川研究会と呼ばれた.

研究会のメンバーは以下の通りである.

(資料)国際協調のための経済構造調整研究会メンバー

(前日銀総裁)前川春雄
(日本貿易振興会理事長)赤沢璋一
(日産自動車会長)石原俊
(住友銀行会長)磯田一郎
(同盟会長)宇佐美忠信
(前駐米大使)大河原良雄
(海外経済協力基金総裁)細見卓
(農林中金理事長)森本修のち沢辺守(元農林水産次官)に交代
(元経済企画次官)宮崎勇
(国際大学長(元外相))大来佐武郎
(NHK 解説委員)大山昊人
(東工大教授)香西泰
(三井銀行相談役)小山五郎
(野村証券社長)田淵節也
(日本たばこ産業社長)長岡実
(元東大学長)向坊隆
(慶大教授)加藤寛

経済構造調整研究会の設置については,

日本の貿易収支の不均衡が
諸外国から批判されており,

これを抜本的に
解決する必要に迫られている
と首相が判断し,

プラザ合意による円高誘導策を
継続的に推し進めるため

経済構造の調整に重点を置いた施策を
検討することにしたものと報じられた.

また,以前から,
中曾根首相が私的諮問機関を多用することに対し,
「国会を軽視するもの」
などと批判が根強かった.

しかし,

「この時期にあえて設置することにしたのは,

15日に決定した内需拡大策が
即効性に欠けるため,

黒字減らしに向け
幅広い観点から
日本が努力している姿勢を
内外に印象付けることをねらっているようだ.

また,首相は
19日からの訪米で
レーガン大統領に
日米貿易摩擦解消の施策のひとつとして
研究会の設置を説明しようとの思惑もある」

「さらに来年3月までに
報告書の提出を求めているのは,
同5月の東京サミット(先進国首脳会議)をにらんだもので
各国首脳に取り組み姿勢を強調する考えもある」

等と報じられた.

経済構造調整研究会の第1回会合で,
中曾根首相は
次のような挨拶を行った.

「最近の国際情勢,
特に日本を巡る経済環境というものを見ますと,
必ずしも余談を許さないものがあるように思いまして,
ここに中長期のある程度の政策を持たないと,
日本の将来に対して
暗雲を呼びかねない状況であるという緊迫感から,
このような研究をお願いした次第なのでございます」.

特に貿易収支が拡大を続けていることに伴い,
米国を中心に
保護主義が台頭していることを懸念,

政府はアクション・プログラムや
輸入拡大のための努力を続けてきたが,
対外経済関係における
「構造的な諸問題」を
検討する必要があることを強調した.

日本は,
発展途上国への経済協力,
海外企業への投資,
原材料輸入量の確保,
貿易のインベントリーなど
適正外貨量,
適正黒字を確保する必要があるが,
そのことにより,

「国際経済全体の
順調な環境を阻害するという
非難を招かざるを得ない」

状況にある.

そうした中で,

「国際経済に調和する
中長期的な,むしろ中期的な
日本の社会経済体質の在り方,
あるいは,国際的な金融関係の処理の在り方等について」,

経済構造調整研究会に
諮問されたのである.

また,可能な限り,
1986年3月までに
研究会の報告がなされることが求められた.

以後,約5ヵ月間にわたって,
研究会は19回開催され,
そのほか報告書の起草委員会が
13回開催された.

赤沢璋一によれば,
この研究会の特徴を
3つあげることができるという.

第1に,
通常の審議会などの例にあるような
各省ヒアリングが3回にとどまり,

説明者・説明ポイントが限定されていた.

第2に,
研究会開催の19回に対して,
報告書の起草委員会が13回も開かれ,

特に1986年3月には
集中的に開かれた.

第3に,
研究会への内閣側の出席者が限られ,
ほとんど発言することがなかった.

すなわち,

「この研究会は
中曾根総理の強いリーダーシップによって設立されたが,
その運営については,
すべて前川座長のリードによって行われた」

のである.

最終的な報告書は,
1986年4月7日に,
中曾根首相あてに提出された (p.193-194)

http://www.esri.go.jp/jp/prj/sbubble/history/history_01/analysis_01_02_03.pdf

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