臓器移植 緩和より脳死概念の浸透を 木村道子(私の視点)

(2004年05月13日)

008652004年05月13日朝刊オピニオン201401493文字国内の脳死臓器移植は、臓器移植法施行から6年半たった現在も30例に満たない。そんな中、自民党の脳死・生命倫理及び臓器移植調査会が2月、同法の改正案をまとめた。脳死での臓器提供の条件を「本人の拒否の意思表示がなければ、年齢を制限せず、家族の承諾のみで臓器提供ができる」と改め、現在は認めていない15歳未満からの臓器提供も可能にしている。
現行法は、従来通り心臓死を「法律的死」とするが、本人がドナーカードで臓器提供を意思表示し、家族も合意した時に限って「脳死を死とし、脳死体からの臓器摘出を認める」ものだった。つまり、医学的には同じ状態でも、ドナーカードがない患者は「生きている」ことになり、臓器提供の条件をクリアした別の患者は「死んでいる」という矛盾が生じていた。
脳死・臓器移植問題については法施行前、様々に議論された。賛成派は移植医や移植を待つ患者たちで、反対派は「日本人の死生観に脳死はなじまない」「そもそも移植医療に妥当性はあるのか」と危惧(きぐ)を表明した。現行法の矛盾は両者に妥協した結果生じたが、脳死をどう考えるのか、その根本的なことは解決されていない。
ドナーカードが普及せず、移植数が停滞しているのは、日本人のなかに脳死・臓器移植への心理的抵抗が残っているからだろう。改正案で表面的な規定を緩和しても、脳死・臓器移植への不信がある限り、家族が快く臓器提供を承諾するとは思えない。
「脳死」の概念は、臨床的には必ずしも臓器移植のためだけのものではない。
私は米国で30例ほど脳死判定をしたが、実際に移植が行われたのは1例のみ。米国の年間死亡者数は約240万人で、脳死率を1%とすると脳死者数は約2万4千人とみることができる。このうち臓器移植は年間約3千件である。つまり、臓器が摘出されるのは1~2割で、大多数の脳死患者は判定と同時に人工呼吸器を外されて静かに息をひきとる。脳死判定が、延命だけの不毛なICU(集中治療施設)治療から尊厳死に移行する区切りとしても機能している。
脳死患者にとって臓器移植の有無は、本来、正確な判定がなされた後に派生する2次的な問題であるべきだ。米国では、移植の有無にかかわらず判定基準を使った厳密な脳死判定が要求される。脳死が移植問題から独立しているからこそ、善意の家族は「臓器ほしさの判定なのでは」という不信に陥ることなく、死後の角膜や腎臓提供と同じ感覚で臓器提供に踏み切ることができる。しかし、日本の臓器移植法は、移植という帰結から出発している。判定基準に則(のっと)った厳密な脳死判定も、移植を前提とした時に限られている。
日本でも脳死状態が疑われる場合、移植の有無にかかわらず、同じ厳密さで判定をすべきではないだろうか。脳死判定後は尊厳死へと移行し、一律に人工呼吸器を外す。やがて訪れる心臓死が法律的心情的「死」であっても、「脳死」すなわち脳の不可逆的回復不全の診断は、無駄な延命治療をやめるきっかけとしても有用である。これは「自然な死」を望む日本人の死生観からもかけ離れたものではない。
「脳死」に対する不信をぬぐう努力ができた時、私たち日本人が本当に臓器移植という治療を承認するのかが明確になるはずだ。
(きむら・みちこ 米国立衛生研究所神経内科医)

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