トリスタン・ツァラら4人がキャバレー・ボルテールへやってくる。

(1916年02月02日)

バルがキャバレー・ヴォルテールの開店を新聞で予告し、「チューリッヒの若い芸術家たち」の協力を呼びかけた。3日後の開店の日の事を、彼は日記「時代からの逃走」(1927年)にこう記録している

私たちがまだ金槌で釘を打ちつけたり、未来派風のポスターを貼付けたりと、準備に忙しかった頃、東洋人風の顔つきをした4人の小柄な男達の一団が、紙ばさみや絵を脇に抱えて到着した。彼らの自己紹介によれば、画家のマルセル・ヤンコ、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・ヤンコで、4人目の名前はよく聞き取れなかった。アルプがたまたま居合わせたので、私たちは多くの言葉を用いずに話し合う事ができた。

4人のルーマニア人学生の仕事はその場で受け入れられ、ツァラはその晩に師を朗読した。彼は愛想のいい若者で、文学と哲学を勉強するために、前の都市の秋からチューリヒに来ていた。本名であるサミ(サミュエル)・ローゼンストックのかわりに、彼は既にトリスタン・ツァラというペンネームを用いていたが、それは「故郷で悲しむ者」の意味であり、ルーマニアのユダヤ人差別への婉曲なあらわれだった。また皮肉な事にツァラがチューリヒに来たのは、両親が息子の文学趣味を遠ざけるためだった。「象徴」の寄稿者であったマルセル・ヤンコとはチューリヒで出会い、大学で建築を勉強していたヤンコにツァラは絵画をすすめた。

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