#053:その他:スポ戦MANIA2010 Vol2 ISAMIレッスルアリーナ

(2010年07月24日)

○GENTARO VS ハレタコーガン×
(ボーアンドアロー)

2010-10

第1話;その男「刺激」

その男はいつもハラハラさせる。

先輩に対しての歯に絹着せぬ物言い。

独善的に見えて芯をえぐる言葉。

警戒と不安を強める先輩たち。

でも俺はその男が好きだった。
俺の生まれは下町の深川。どんなに澄ましても自分の言葉の端々には柄の悪さが滲み出てしまう。
すぐ巻き舌になるわ、お前とかデフォルト仕様ですし。各方面ご迷惑かけてると思いますので誰かは判りませんが謝っときます。

「言葉使い悪くてすいません。」

まぁ、どちらかというと隠して生きてきた私。

しかし、その男は俺よりも過激な言い回しをしつつもどこか上品というか、気品のあるような耳の残りかたが印象的だった。

主役というものは好きじゃない。トレンディードラマで言えばギバちゃんがいいと思う「自称クセのある男」はタイプは違えど同類を見つけた気持ちになった。

1994年春
私にとってその男は「刺激」だった。

第2話;その男「心友」
同期とはよく連んだ。
昔は合同でなくて部屋(各大学)制で練習を行っていた。我が大学の法政練習は月水金の週3日あった。しかしそんな中でもうちは活気があったので他大学の同期も練習あれば週1位で誰かが来てくれていたりその後飲んだりもした。

興行もそこそこあったのでちょいちょい会っていたイメージだ。

2年生はとにかくプロレスに浸かった記憶がある。
大学も7単位しかとらなかった(笑)

大学2年生はプロレス嗜好も変わる時期。その男がHBKにハマっていく傍らに私は密かにレザーラモンに憧れた。
特にその男と連んでいたのがバレたかその年のUWF腹黒大賞は二人セットでの受賞だった。

その男は俺と会うと必ず「心の友よ」と言うのが口癖だった。

他の奴らにも言っていたかどうかは分からない。
でもその男がそう言うもんだから、きっと私も同じ気持ちなんだろうと思った。

1995年冬
私にとってその男は「心友」だった。

第3話;その男「強敵」
「俺とタッグを組まないか?」
その男はこう言った。
2年目が終わって冬だった。
その頃のタッグ戦線はホモ親分(ホモ永則男、小松の親分)が一戦したくらいであった。
それよりも多く俺とその男はタッグを組んでいたからその男にも勝算があったんだろう。

でもそれには理由がある。
生意気な奴らをセットにしておけばチャレンジマッチで潰しやすいからだ(笑)

その男ともウマが合ってたしコンビネーションでも負ける気がしなかったのは確か。

だから今から結成しても充分ベルト奪取のチャンスはあった。

当時のタッグチャンピオンはパイマン(パイプ加藤、マン小地沢)であった。

マン小地沢は私の目標とするレスラーである。
黄色タイツにしたのも彼の影響だし、タバコだったり合コンだったり色々とね。
だから願ったり叶ったりなシュチエーションだった。小地沢さんからベルトが奪えるかもしれない。

受けるべきだったかなぁ。

結果は断った。

当時、俺はヘビー級枠に入れられていた。くまからサムライちろうにベルトがバトンタッチ。
ベルトを取られた前チャンピオンはヘビー級候補生とチャレンジマッチを行うのがマッチメークの基本。
当然ヘビー級第一コンデンターは桂のみ助。
しかし桂のみ助はチャレンジの必要がない程洗練されていたし、くまはコミュニケーション能力が微妙だったのでいじめっ子ののみ助とは相性が合わなかった。

なんで俺(笑)
普通は1、2回くらいだけどタッグ合わせて5回は組まされたはずだ。

奇しくもベルトを持ってないレスラーでここまでチャレンジした奴はいないんじゃないか?

くまにはポリープにもさせられた。
手術も予定していた。
恨み言はいくつもあった。
でもUWFが求めていた私の未来の姿は決してタッグチャンピオンでは無いだろうと思った。

サムライちろうとも手術終わって復帰したらタイトルマッチやろうって約束した。

居場所は決まっていたんじゃないかと。

だからその男に私は来るべきのみ助がベルトをとった時の強敵(ライバル)になりたい。
こんなん言った気がする。当時、その男はジュニアヘビー級だったからお前は笠原のライバルで二人で両階級を盛り上げようと。

酔っぱらってるから前後は覚えてない。

続く

第4話;続、その男「強敵」
1996年、3年生の秋。
ジュニアヘビー級だったその男はヘビー級に転向する。
特にジュニアヘビー級のアイアイ笠原のスタイルに真っ向反発。
ヘビー級チャンピオンの桂のみ助とのチャンピオンシップを行う事でその頃から階級に囚われない闘い方を提唱している訳だ。

片やヘビー級でありながら蹴りを中心としたファイトスタイルに自ら疑問を投げかけた私はそんな憤りに対する証明としてジュニアヘビー級のアイアイ笠原と闘う。
皮肉にも求めるアプローチは真逆であった。

闘いに必要なものは
「負けたくない心」。

これをどう表現するかが私のテーマだった。
その後も桂のみ助とチャンピオンシップを行い、笠原戦とのみ助戦は私の代表作となった。
その男もちんちん千葉×2との同期対決を行い爪痕を残す。
二人ともUWFの役割は果たしたのではないだろうか。

同じ年の法政小金井でその男と初めて対戦した。
完全決着が当たり前の四天王プロレス時代に逆行しての引き分け。
当時は本当に珍しかった。
二人とも全日本好きなのに。何故か今でも引っ掛かる。

年末。
UWFプロレス大賞。
のみ助、笠原、私は同じテーブル。三人ともベストバウトはここから生まれると。笠原戦かのみ助戦、どちらかがベストバウトだと思っていた。

結果はその男とちんちん千葉×2との同期対決。

確かにいい試合だけど凄い試合ではない。
それが印象。
クオリティは負けてないと今でも思っている。
納得がいかなかったから選考した先輩に噛み付いて理由を聞き出した。

「一番学生プロレスらしい」

これが選考理由。
憑き物が落ちた。
上とか下とかで争ってるのが馬鹿らしくなった。

そりゃ評価されたいけど違うんだ。
人から言われるのを待つ事をその時から止めた。

この頃から

「俺達は素晴らしい」

を証明する事が自分の中でのベストバウトとなる、と考えるようになる。

それにしてもあれだけ嫌われた、且つ認めて貰えなかった俺とその男がベストバウトで競えたなんて違う意味で嬉しくなった。

1996年 年の瀬
私にとってその男は「強敵」になった。

第5話;その男「希望」
絶望。
事の大小あれども、誰しもがその存在を疎みつつも避けられないモノ。

私達学生プロレスラー最大の絶望は

「学生プロレスラーが学生で無くなる事」

二つはセットなのです。
決してプロレスラーではないので学生でないとその存在理由が無くなるのです。
今はそうでもないですが当時は大問題です。
インターネットとかMixyが無ければ確実に私はアマチュアプロレスラーやってないでしょう。

怪我で辞める者、ついてこれないで辞める者が居たにせよ同期13人無事卒業(約二人留年)

時は過ぎ…

1999年OB2年目、やっと電子メールというものが出てきた時代。私がプロレスからのフェイドアウトを考えていた頃。

その男はそんな絶望など意にも介さず子供の頃からの夢を追い求めていた。

昔ほど会う機会は減っていったが合コンとか飲み会はよく行っていた。
好きな娘が出来るとたまにメールをくれた。ケンカしたり、別れたりした時もとても繊細なメールをくれる。

合コンは辞めなかったけど(笑)仕事が忙しく半人前の私は当然のように仕事にのめり込むのだった。

強引かもしれないが今思えば私とプロレスをつないだものは彼との(合コンの誘いや彼からの招待)メールだったのかもしれない。
この頃はよくDDTのATOMとかジオポリスに出現していた。
プロレス頭も回転し始め、スカパー!にも入り週3日はWWEを見ながら寝落ちするというプロレスにも没頭するようになる。

おかげで?毎年秋の学祭には出れるくらいのコンディションは保っていられた。

2000年~2002年
私にとって彼は「希望」だったのかもしれない。

第6話;その男「目標」
2003年9月
健康プロレスが旗揚げ。
実況として参加。
ほぼ全員がチャンピオンという構成に普段なら恐れ多いと思う私であったが挑戦してみたかった。
レスラー志望として再び体をイジメるようになる。

2004年~2006年
健康プロレストーナメントでBEST4。プロレスが楽しくて仕方がない。

時を同じくしてその男もその業界での有名な大会に出たりとJoberからの脱却が見えてきた。

2007年7月
私の結婚式興行。
闘う相手は決まっている。
私はその男にオファーした。せっかくの舞台、難敵に立ち向かいたかった。
しかし、彼は仕事が急に入ってその話は流れた。

それはそれでいい試合だった。山田組五人とのシングル。俺もハクが着いたし皆と楽しめた。

しかしもし…その男とやっていたらどうなっただろう。ご祝儀なしのガチンコ勝負。

そんな事を考えるようになった。

2007年 夏
私にとってその男は「目標」となる。

第7話;その男「化物」
2008年 未曽有の世界不況。
全く仕事もうまくいかない。本気で人生の末路を考えた最悪の絶望。
このまま死ねば苦しまなくて済む。そう思った時もあった。
でも俺が死んだらどうする?今まで証明したものはどうなる。幸せだったモノ、揺るぎないモノを汚す訳にはいかない。
仕事はプロレスである。
人生はプロレスである。
ドラマは平坦に進んではくれない。
自分というドラマを愛せ。絶望と向き合え。

だから

それでもプロレスをしよう。

ハレタコーガンは死ぬまでプロレスと向き合っていくんだと覚悟を決めた。

そう覚悟を決めたのにふと周りを見渡すとアマチュアプロレスという山では私の同期と呼べる者は誰もいなくなっていた。

ちなみに見渡すと
となりの山にはまーくん(川嵜風馬)とその男のみとなる。

続く

第8話;続、その男「化物」
その男は業界では知られる存在となり、色々なところでトップになった。

その男のプロレスはHBK色も無くなり、先の読めないオールラウンダーになった。
ある者は「イソップ化してる」

ある者は「半魚人化してる」
と言う。
決め技を固定しない戦術はイソップ等が継承するジュニアヘビー級の流れでもあり、素はルーテーズだったり、昔の新日本だったり。

また、その男が最近多用する卍固めは言わずと知れたアントニオ猪木、半魚人マサカズのフェバリットホールドである。

しかし私はこう思う。
人から教わるという事を嫌うその男でも勉強はする。試合を見てイメージトレーニングをするのは有効な練習となる。ちなみに教材はYouTubeであろうと推測する。
あの闘いかたは
教材が1990年前後のHBKから1970年前後のアントニオ猪木、ルーテーズに変わっただけだ。

そう思う。
当時の本物の強さを備えた戦士が行った戦術と闘い方を極めつつあるその男は「あちらの山」では「化物」に見えるのではないだろうか。

こちらの山でも下っ端だった頃より上は透けて見え、下からは文句を言われる様になった。
一年半の休養の後に復活した健康プロレス。

やりたい事と出来る事のギャップが埋まってきた。

化物に対抗しうる戦術、若者にもまれた体力、何者にも折れない心。

「俺達は素晴らしい」の基準が上がってきた。

俺もその内に「化物」の仲間入りか。

山は違えど同じ目線にいるその男。意識してないと言ったら嘘になる。

2010年2月 スポ戦MANIA終了後の打ち上げ

私にとってその男は「化物」…ではなく「闘うべき男」になる。

第9話;最終話その男「X」
ここまで書いたはいいが試合自体のイメージは全く出来ていない(笑)
対戦相手とも試合の話など皆無。エビスコ酒場で飲んだくれただけだ(笑)

本当に申し訳ない。

やる事は変わらない。
腕が捕れそうなら腕、足が捕れそうなら足を狙う。

一点集中にはならないかな。
読まれるから。
散らしながらの調整になるだろう。

お互い闘い方は心得ている。相手のリズムを殺して自分のリズムを重ねる。
ただそれだけだ。
対戦自体が引退試合以来か。

描くのは勝利のイメージ。
筋書きのない闘いだよ(笑)マジで。

14年ぶり2度目のシングル。対戦成績は一分け。
待ったなしです。

藤井大輔VS X

2010年7月24日
私とってその男は「X」である。
刺激であり、心友であり、強敵でもあり…俺の心の中で如何様にも変われる。
友達だからだ。

そして

私はその男にとっての「何か」でありたい。

友達だからだ。
なぁ心の友よ。

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