(享保十七年)享保の大飢饉、片土居町能当番に

(1732年)

一番山笠 金屋町上 「甲賀山合戦」
二番山笠 濱口町上 「鉢木」
三番山笠 古門戸町 「稲村ケ崎遠干潟」
四番山笠 店屋町上 「小督嵯峨月」
五番山笠 小山町上 「小清水合戦」
六番山笠 釜屋番 「源氏初音巻」
能当番 片土居町
全国的な不作の中、福岡黒田藩領内の被害は420,640石。僅か43,000石が取れただけで、博多津内の窮民餓死せし者夥しく、翌年も飢饉が早々にやってきた。全国では264万5千人が、筑前では9万6千人が餓死あるいは病死。博多の人口は、42年前の元禄三年では19,516人、享保の大飢饉の5年後の元文二年では13,469人であったから、約6千人減ったことになる。「櫛田社鑑」では「享保十七年五月より淋雨やまずして田畠凶荒して非常の大変なりしかども、祇園祭礼は怠りなし、併是よりして作り山も細くなりしとかや」。また「山笠歳代記」では「この年五月より六月まで疱瘡山、当市中(博多じゅう)の町に残らず作りし故、本山笠例年よりほそし」とある。いまも東中洲の新橋河畔にある「飢え人地蔵」は当時の無縁仏を弔ったもの。

コメント