(文禄元年~)文禄期はじめ長門国舟木より櫛職人が博多片土居町(櫛引(挽)町)に移住(筑前国続風土記)

(1592年)

櫛職人の名工多く、寛政年間(1790年代)には19軒が特産品「筑紫櫛」を作る。筑紫櫛職人はこの町だけに住んだため櫛引(挽)町の別名も。慶応の頃(1867年頃)にも7軒の木櫛細工の店があった。古くは片土居町の西側、現在の明治通りから南側に称名寺、順弘庵、栄昌庵、宗久寺があった。称名寺は土居道場ともいい、鎌倉時代の1320年(後醍醐天皇の元応期)に創建。称阿・名阿父子が支援して建てられたため、上の一文字ずつを取って寺の名前に。慶長年間までは塔頭6坊を数えた。土台を含めた高さ11.5mの青銅座像「博多大仏」が1912年に完成。仏師高田又四郎が原型を担当し、地元の磯野鋳造所が鋳造を手掛けた。博多名所の一つだったが、大正期に寺は東区馬出に移転。ラフカディオ・ハーンも美しさをたたえた大仏は、太平洋戦争末期の金属回収令で供出され姿を消し、現在は台座だけが残っている。昭和20年6月19日の福岡大空襲では、片土居町も全町が焼失、特に十五銀行福岡支店では住民63人が熱死した。現在は博多座や西日本シティ銀行博多支店となっている。

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