PHP研究所を設立

(1946年11月)

戦後直ちにGHQによって制限会社に指定され、幸之助・井植以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。暖簾分けの形で井植を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁する一方、1946年11月にはPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出すことで世評を高め、社内留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰する。