ローマ教皇が、広島平和公園でも平和への祈りを捧げる。

(2019年11月24日)

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広島 平和公園でのスピーチ

「わたしはいおう、
わたしの兄弟、友のために。

『あなたのうちに
平和があるように』」(詩編122・8)。

あわれみの神、歴史の主よ、
この場所から、わたしたちは
あなたに目を向けます。

死といのち、崩壊と再生、
苦しみといつくしみの交差する
この場所から。

ここで、大勢の人が、
その夢と希望が、
一瞬の閃光と炎によって
跡形もなく消され、
影と沈黙だけが残りました。

一瞬のうちに、
すべてが破壊と死という
ブラックホールに飲み込まれました。

その沈黙の淵から、
亡き人々のすさまじい叫び声が、
今なお聞こえてきます。

さまざまな場所から集まり、
それぞれの名をもち、
なかには、異なる言語を話す人たちもいました。

そのすべての人が、
同じ運命によって、
このおぞましい一瞬で結ばれたのです。

その瞬間は、
この国の歴史だけでなく、
人類の顔に永遠に刻まれました。

この場所のすべての犠牲者を
記憶にとどめます。

また、あの時を生き延びたかたがたを前に、
その強さと誇りに、深く敬意を表します。

その後の長きにわたり、
身体の激しい苦痛と、
心の中の生きる力をむしばんでいく
死の兆しを忍んでこられたからです。

わたしは平和の巡礼者として、
この場所を訪れなければならないと感じていました。

激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、
現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、
静かに祈るためです。

とくに若者たち、
平和を望み、平和のために働き、
平和のために自らを犠牲にする若者たちの
願いと望みです。

わたしは
記憶と未来にあふれるこの場所に、
貧しい人たちの叫びも携えて参りました。

貧しい人々は
いつの時代も、
憎しみと対立の
無防備な犠牲者だからです。

わたしはへりくだり、
声を発しても
耳を貸してもらえない人々の
声になりたいと思います。

現代社会が直面する
増大した緊張状態を、
不安と苦悩を抱えて
見つめる人々の声です。

それは、人類の共生を脅かす
受け入れがたい不平等と不正義、
わたしたちの共通の家を世話する能力の
著しい欠如、
また、あたかもそれで
未来の平和が保障されるかのように行われる、
継続的
あるいは突発的な
武力行使などに対する声です。

確信をもって、
あらためて申し上げます。

戦争のために原子力を使用することは、
現代において、
犯罪以外の何ものでもありません。

人類とその尊厳に反するだけでなく、
わたしたちの共通の家の未来における
あらゆる可能性に反します。

原子力の戦争目的の使用は、
倫理に反します。

2年前に私が言ったように、
核兵器の所有も倫理に反します。

これについて、わたしたちは
神の裁きを受けることになります。

次の世代の人々が、
わたしたちの失態を裁く裁判官として
立ち上がるでしょう。

平和について話すだけで、
諸国間の行動を何一つしなかったと。

戦争のための
最新鋭で強力な兵器を製造しながら、
平和について話すことなど
どうしてできるでしょうか。

差別と憎悪の演説という
役に立たない行為を
いくらかするだけで
自らを正当化しながら、
どうして平和について話せるでしょうか。

平和は、それが真理を基盤とし、
正義に従って実現し、
愛によって息づき完成され、
自由において形成されないのであれば、
単なる「発せられることば」に過ぎなくなると
確信しています。

(聖ヨハネ23世回勅
『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』
37〔邦訳20〕参照)。

真理と正義をもって平和を築くとは、
「人間の間には、
知識、徳、才能、物質的資力などの差が
しばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを
認めることです。

ですから、自分だけの利益を
他者に押し付けることは
いっさい正当化できません。

その逆に、
差の存在を認めることは、
強い責任と敬意の源となるのです。

同じく政治共同体は、
文化や経済成長といった面では
それぞれ正当に差を有していても、
「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、
すべての人の善益のために働く
責務へと招かれています。

実際、より正義にかなう
安全な社会を築きたいと
真に望むならば、
武器を手放さなければなりません。

「武器を手にしたまま、
愛することはできません」

(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。

武力の論理に屈し、
対話から遠ざかってしまえば、
いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、
武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。

武力は
「膨大な出費を要し、
連帯を推し進める企画や
有益な作業計画が滞り、
民の心理を台なしにします」(同)。

紛争の正当な解決策であるとして、
核戦争の脅威で
威嚇することに頼りながら、
どうして平和を提案できるでしょうか。

この底知れぬ苦しみが、
決して越えてはならない一線を
自覚させてくれますように。

真の平和とは、
非武装の平和以外にありえません。

それに、
「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、
……たえず建設されるべきもの」

(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。

それは正義の結果であり、
発展の結果、
連帯の結果であり、
わたしたちの共通の家の世話の結果、
共通善を促進した結果
生まれるものなのです。

わたしたちは
歴史から学ばなければなりません。

思い出し、ともに歩み、守ること。

この三つは、倫理的命令です。

これらは、まさにここ広島において、
よりいっそう強く、
より普遍的な意味をもちます。

この三つには、
平和となる真の道を
切り開く力があります。

したがって、
現在と将来の世代が、
ここで起きた出来事を
忘れるようなことがあってはなりません。

記憶は、より正義にかない、
いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、
保証であり起爆剤なのです。

すべての人の良心を目覚めさせられる、
広がる力のある記憶です。

わけても、国々の運命に対し、
今、特別な役割を負っているかたがたの
良心に訴えるはずです。

これからの世代に向かって、
言い続ける助けとなる記憶です。

二度と繰り返しません、と。

だからこそわたしたちは、
ともに歩むよう求められているのです。

理解とゆるしのまなざしで、
希望の地平を切り開き、
現代の空を覆う
おびただしい黒雲の中に、
一条の光をもたらすのです。

希望に心を開きましょう。

和解と平和の道具となりましょう。

それは、わたしたちが互いを大切にし、
運命共同体で結ばれていると知るなら、
いつでも実現可能です。

現代世界は、
グローバル化で結ばれているだけでなく、
共通の大地によっても、
いつも相互に結ばれています。

共通の未来を
確実に安全なものとするために、
責任をもって闘う偉大な人となるよう、
それぞれのグループや集団が
排他的利益を後回しにすることが、
かつてないほど求められています。

神に向かい、
すべての善意の人に向かい、
一つの願いとして、
原爆と核実験と
あらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、
声を合わせて叫びましょう。

戦争はもういらない!

兵器の轟音はもういらない!

こんな苦しみはもういらない! と。

わたしたちの時代に、
わたしたちのいるこの世界に、
平和が来ますように。

神よ、あなたは約束してくださいました。

「いつくしみとまことは出会い、
正義と平和は口づけし、
まことは地から萌えいで、
正義は天から注がれます」(詩編85・11-12)。

主よ、急いで来てください。

破壊があふれた場所に、
今とは違う歴史を描き
実現する希望があふれますように。

平和の君である主よ、来てください。

わたしたちをあなたの平和の道具、
あなたの平和を響かせるものとしてください!

私は、君とともに平和を唱えます。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191124/k10012189341000.html

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