【President】イタリアへの中国人移民の増加は、20年以上前から始まっていた。

(2020年03月30日)

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上記の「一帯一路」への参加が、
イタリアにおけるコロナ禍のきっかけとなった
という分析も見かける。

だが、ここ20年以上
ミラノで暮らす筆者にとって
現在の状況は、
中国のイタリアに対する
長年の「静的侵食(サイレント・インベージョン)」が、
ある一定の成果を収めた結果
に見えて仕方がない。

イタリアのアパレル産業を支える中国人労働者

イタリアの主要産業のひとつ、アパレル。

その中心は
トスカーナ州にあるプラートという町だ。

日本のキャリア女性にも人気の高い
マックス・マーラや
プラダ、
フェンディなど、
多くのブランドの工場がある。

この町に隣接する
サン・ドンニーノの皮革工場で働く中国人たちが、
プラートに移り始めたのは
1990年ごろのこと。

次第に
ニットを中心に
中国人が経営する工場が増え始め、
中国人のコミュニティーが成長。

ついにはプラートの繊維工場は
ほとんどが中国人経営となった。

当時、
イタリアの法律に違反して
24時間態勢で
工場を稼働することが常態化するなか、
ある工場が
夜中にストーブの火の不始末から火事を起こし、
何十人という中国人が焼け死んだ。

このニュースを機に

“メイド・イン・イタリー・
バイ・チャイニーズ”

が注目されることとなる。

1990年代の末ごろ、
ミラノのパオロサルピ地区において、
卸売業者のトラックの
違法駐車問題が起こった。

パオロサルピは
日本の神戸や横浜ほどの規模ではないものの、
ミラノのチャイナタウンと呼ばれ、

中国人経営の
衣料や食材の店舗が
軒を連ねている。

その後も
中国系の不法移民問題や、
ギャンブル、売春、合成麻薬の売買、
さらには発砲事件なども多発するようになり、
中国系住民と地元住民との確執は激化した。

業を煮やしたミラノ市は、
中国人会の代表者と幾度も折衝を重ね、
卸売業者をミラノの北西20キロの、
アルファ・ロメオの工場跡地があるアレーゼに
移転させると発表。

だがこの交渉は結局決裂し、
次にミラノ南端のアッビアーテグロッソに、
当初計画よりもさらに広大な土地が提案されたが、
これも合意には至らなかったようだ。

結果として
ミラノの中心部にとどまれている
という意味では、
中国人側の完全勝利である。

2000年代に入ってから中国系移民が急増

80年代に入るまでは、
ミラノにおいては
中国人は
まだまだ珍しい存在だった。

記録によれば、
1975年には
イタリア全土でも
中国人は402人しかいなかった。

それが
80年代には福建省から、
90年代には中国北部からの移民が
徐々に増え始めた。

2000年代になって
鉱山の閉鎖が相次いだことをきっかけに、
中国から大量の失業者がイタリアに流入。

2005年には約11万人だった中国人は、
10年には約19万人、
15年には26万5000人にまで達した。

イタリアにおける移民の数としては、
近隣のルーマニア、モロッコ、アルバニア、
そしてウクライナ(いずれも国家破綻した国ばかりだ)
に次ぐ数である。

とはいえ、
その頃までのイタリア人と中国人の関係は、
上記のパオロサルピを除けば
友好的なものだった。

中国本土からの観光客も増え、
17年には
年間150万人の中国人が
イタリアを訪れた。

一人当たり1200~1600ユーロ(約15万円~20万円)を落としてくれる
中国本土からの観光客は、
それまでの上客であった日本人に代わるものとなり、
レストランのメニューやフロア案内など
中国語表記が目立つようになる。

年間5000万人が訪れる
観光立国であるイタリアを支えているのは、
もはや中国人なのだ。

https://president.jp/articles/-/33933

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