近吾堂板(近江屋板)が地図の刊行を始める

(1846年)

近江屋があったのは四ツ谷御門(現在の新四谷見附橋)のすぐ近くで、これは武士の住居地である番町の入り口にあたります。江戸時代には表札を出す習慣もなく、また特に番町のような屋敷街では目印になる建物などもないため、地理を知らない者には人の家を訪ねるのも一苦労でした。

近江屋では武家屋敷を訪ねる人からひっきりなしに道を聞かれるため、説明のために番町の地図を作ったのですが、地図の人気が出たために販売を始めました。近江屋はもともと地図とも出版とも無関係でしたが、このアイデアは非常に当たり、番町以外の地図も刊行することになったのです。近吾堂板は、やがて31枚(のち数が増えて38枚)の地図で江戸全体をカバーするに至ります。
堂号は近吾堂、屋号は近江屋で、近吾堂板とも近江屋板とも呼ばれますが、近吾堂板の方が一般的です。

江戸切絵図
引用http://mapfreak.sakura.ne.jp/column/kiriezu.html