【佐藤徳雄】西岡武夫に「パッシーナ」に行ったか質問。

(1989年05月24日)

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○佐藤(徳)委員

臨教審第二部会委員らを対象とした
接待攻勢の事実についてお尋ねをいたします。

六十年六月第一次答申が出された前後の時期に、
私どもの調べによりますと接待が集中していたようであります。

これは第一次答申前後の動きと相前後いたしまして
複数の委員に個別に行われたというふうに
うかがい知れているわけであります。

その場所は、東京銀座のリクルート社の地下

高級バー「パッシーナ」というのでしょうか、
こういうところで行われたということだそうでありますが、
その事実関係についてお答えください。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/114/0170/11405240170004a.html

C 疋田問題では驚いたことがひとつある。
『書かれたらそれまでよ日記』に、
神田の居酒屋「カントリー」に中江も交えて集まっていることが書かれている。
どうも中江が疋田らにネジを巻いてやらせているんだろう。

B この件のバックにいるのは、中江だろう。

A 本多、疋田はいろいろ言っているが、大体当時問題企業として批判を浴びていたリクルートに、
新聞記者が近づくのがおかしいんだ。
各新聞社がリクルート商法を、女性職員を安く使っているとか、青田買いとかで批判していた。
そんなことを社会部の長老格の疋田らが知らない訳はないし、知らないとすれば怠慢だ。

C 朝日がやったリクルートの青田買い批判記事だが、あれを書いたのはPだ。
Pと疋田は同じ社会部なのだから、知らないとは考えられない。
それに、あのころの編集をみていた責任者は、一柳、中江だ。(p.106)

C 朝日新聞が就職協定違反、誇大広告などでリクルート批判記事を書いたが、
それまでリクルートはマスメディアに対して何も手を打っていなかった。
リクルートが新聞対策をやらなくてはいけないと方針を変えたのは、この記事が出てからなんだ。
朝日にいきなりキャンペーンをやられて困った。
だから、書かれるにしても事前にある程度わかるとか、あるいは、
こちらの言い分も聞いてもらうなどの対策を打つ。
こちらの言い分を聞いてもらえる人間関係を作らなければいけないということを感じ始めていた。
新橋のリクルートビル地下にあるクラブ「パッシーナ」に、毎日入り浸っていたのじゃないか。

A 一回だけ行ったと言っているが。

C (笑い)ウソだよ。
一頃は連日のように行っていたよ。
一人で行ったりとか、(元朝日新聞文化企画担当取締役)富岡隆夫とよく一緒に行っていた。
毎日行っていて、行くと江副が降りてきて、ピアノを弾いていた。
江副がここぞとばかりにサービスするし、中江はそのサービスがよくて頻繁に行くんだ。
当時『アエラ』が発行準備中で、中江はその発行準備の責任者だった。
『アエラ』が出版されて富岡が編集長の時に、リクルート事件が起きた。
それで江副が『アエラ』だけには、インタビューに応じている。
そういった人間関係がパッシーナでできていた。(p.107)

(「夜明け前の朝日」藤原肇・著 )

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