【一柳東一郎】朝日新聞の社長を辞任。★

(1989年05月27日)

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その二日後の二十七日に一柳社長の辞任があり、
皆がその意外性に疑問を抱いた後任人事で、
減俸処分中の中江専務が社長に就任した。

「夜明け前の朝日」(藤原肇・著)
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D 政治的な重みも比較にならんだろう。
伊藤律事件の時、朝日新聞の社長は辞めていない。
大阪編集局長がいったん辞めて、数年後に復帰している。

C サンゴ事件は、カメラマンと写真部長、せいぜい編集局長の譴責程度の話だ。
朝日新聞の企画部員が三星堆遺跡の国宝を中国で割った事件の方が大きい。

D 世田谷美術館で開かれた中国美術展に関係したものか。
それは大事になっていないだろう。

A その社員の社内処分に終わっている。

D 一柳、中江がもらっているというリストが出回った頃、
ちょうど並行してサンゴ事件が起こっている。

B 突然の辞め方だった。

A サンゴ事件にしても、編集最高責任者の中江が、本来であれば辞めるべきだ。
ところが、中江が後任の社長になり、
編集長だった伊藤邦が、後に朝日新聞の常務になり、テレ朝の社長になった。

(「夜明け前の朝日」藤原肇・著 p.103)
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C 疋田問題では驚いたことがひとつある。
『書かれたらそれまでよ日記』に、
神田の居酒屋「カントリー」に中江も交えて集まっていることが書かれている。
どうも中江が疋田らにネジを巻いてやらせているんだろう。

B この件のバックにいるのは、中江だろう。

A 本多、疋田はいろいろ言っているが、大体当時問題企業として批判を浴びていたリクルートに、
新聞記者が近づくのがおかしいんだ。
各新聞社がリクルート商法を、女性職員を安く使っているとか、青田買いとかで批判していた。
そんなことを社会部の長老格の疋田らが知らない訳はないし、知らないとすれば怠慢だ。

C 朝日がやったリクルートの青田買い批判記事だが、あれを書いたのはPだ。
Pと疋田は同じ社会部なのだから、知らないとは考えられない。
それに、あのころの編集をみていた責任者は、一柳、中江だ。(p.106)

C 朝日新聞が就職協定違反、誇大広告などでリクルート批判記事を書いたが、
それまでリクルートはマスメディアに対して何も手を打っていなかった。
リクルートが新聞対策をやらなくてはいけないと方針を変えたのは、この記事が出てからなんだ。
朝日にいきなりキャンペーンをやられて困った。
だから、書かれるにしても事前にある程度わかるとか、あるいは、
こちらの言い分も聞いてもらうなどの対策を打つ。
こちらの言い分を聞いてもらえる人間関係を作らなければいけないということを感じ始めていた。
新橋のリクルートビル地下にあるクラブ「パッシーナ」に、毎日入り浸っていたのじゃないか。

A 一回だけ行ったと言っているが。

C (笑い)ウソだよ。
一頃は連日のように行っていたよ。
一人で行ったりとか、(元朝日新聞文化企画担当取締役)富岡隆夫とよく一緒に行っていた。
毎日行っていて、行くと江副が降りてきて、ピアノを弾いていた。
江副がここぞとばかりにサービスするし、中江はそのサービスがよくて頻繁に行くんだ。
当時『アエラ』が発行準備中で、中江はその発行準備の責任者だった。
『アエラ』が出版されて富岡が編集長の時に、リクルート事件が起きた。
それで江副が『アエラ』だけには、インタビューに応じている。
そういった人間関係がパッシーナでできていた。(p.107)

(「夜明け前の朝日」藤原肇・著 )

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https://ja.wikipedia.org/wiki/一柳東一郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/中江利忠

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