西暦121年5月、漢の安帝が、宦官と組んで鄧一族を粛清。

(1000年)

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(※このサイトでは、西暦1000年より前が入力できないため、便宜的に1000年としています。)

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親政の確立

建光元年(121年)春正月、
幽州刺史の馮煥が
二つの郡の太守を率いて
高句麗と濊貊を討った。

成人後の安帝は
外戚の鄧氏に反発するようになり、
その影響からか
生活に乱れが生じていた。

また閻氏(えんし)を立后するが、
安帝との子をもうけた他の后妃を
殺害するなどを行っていた。

3月、
長く臨朝して政治の実権を握っていた鄧綏が死去すると、
鄧騭は大将軍を辞任し、特進待遇となった。

安帝は、4月に
実父や実母らに
皇帝や皇后を追尊する一方で、
楽成王の劉萇を罪に問い
侯に降格させている。

5月には
閻氏や宦官李閏らの助力を得て、
鄧騭や鄧遵ら、鄧一族を粛清し、
また、平原王の劉長を罪に問い
侯に降格させた。

(中略)

治世

ただし
官僚との連絡役として
宦官を重用したことが、
後に宦官の専横を許すこととなった
といわれる。

鄧氏の粛清の後は、
宦官と閻氏一門が
専権を振るうことになる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/安帝_(漢)
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