【近衛文麿】「百貨店法」が成立。
(1937年08月14日)商工大臣は、吉野信次。(旧自由党系)
https://ja.wikipedia.org/wiki/第1次近衛内閣
わが国の大規模店舗の始まりは、
明治時代に発祥した百貨店(デパート)である。
それは、 商業への近代的経営の導入であった。
社会の大衆化にともない店舗数も取扱品目も増え続 けた百貨店は、
既存の中小小売業者に大きな影響を与えたため、
昭和 12 年、わが国初の 大規模小売店舗規制法である百貨店法が成立した。(p.4)
(中略)
百貨店は当初、
「今日は帝劇、明日は三越」というような
高所得層を顧客としていた。
しかし、 第一次大戦後の不況、
私鉄ターミナルに立地する鉄道系企業等の
新規参入による競争の激化などを背景に、
百貨店は店舗の新設・拡大路線を進めるとともに、
比較的低価格の品目も扱う大衆化路線をとるようになった。
これは日本社会全体の大衆化と
軌を一にする動きであり、
百貨店は 庶民の生活にも身近な存在となったが、
小売業界で圧倒的多数を占める中小小売業者の
利益を侵すことでもあった。
ここに、商店街と大規模店舗との
長い軋轢の歴史が始まった。
パリでボン・ マルシェ、その他の百貨店が栄えつつあった
1880 年代に出版されたエミール・ゾラの
『ボヌール・デ・ ダム百貨店』には、
巨大な機械のような百貨店 のメカニズムとともに、
それに押しつぶされる周辺中小小売業者の悲劇が描かれている。(p.75)
(中略)
商店街では明治 30 年代から
町内会をもとに
商店の団体(商店会)が形成されるようになり、
昭和初期には
東京府で約 400 の商店会に
2 万商店が加盟していた。
こういう環境に、
近代企業である百貨店は出現したわけである。
昭和 5 年から 6 年にかけての 1 年間の
東京市内における百貨店 対 小売商人 物品販売高を、
商工省と東京市が共同で調査 したところ、
数の上では個人小売業者が 6 万、
百貨店は 18 (同じ百貨店の本支店は 1 と数える。) であるのに対し、
織物被服類の売上総額の 69%、
小間物用品類では 59% を百貨店が占めていた。
出張販売、商品券の発行、送迎・無料配送、
客寄せの催事といった新手法を繰り出し
販売促 進を行う百貨店に対し、
商店会を中心とした中 小小売業者からは
規制を求める声があがるよう になった。
百貨店の多くが、同業者組合に加入 しなかったことも、
小売業者の反発の一因で あった。
(中略)
昭和 2 年の金融恐慌、
昭 和 4 年の世界恐慌、
昭和 6 年の金解禁と、
長期的な不況にあえぐ中小小売業者の要求は
激しさを増した。
昭和 7 年には、全国小売業代表者大 会で、
百貨店の規制要望の決議がなされた。(p.76)
(中略)
実際の運用を見ると、
法施行時には
すでに日中戦争がはじまり
戦時経済状態に入っていたこともあり、
百貨店法が廃止される昭和 22 年まで の間、
新規参入はほとんど行われなかった。(p.77)
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/071604.pdf
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