【竹中正久】四代目組長に就任

(1984年07月10日)

組内では過去に悲運を味わった山本広に同情する者が多かったが、
三代目の妻であった田岡文子(フミ子)の強い意向で、
1984年6月5日、遂に山口組四代目を受諾。

同年7月10日に継承式が執り行われた。

文子に反発した山広派は山口組を脱退、
一和会を結成し山一抗争へと発展した。

勢力数こそ当初は一和会が山口組を上回っていたものの、
武闘派・竹中四代目の怒濤の攻撃(切り崩し)を前にして
一和会は徐々に弱体化、
焦った一和会側は密かに竹中暗殺を計画し、
同年9月には暗殺部隊を結成。

翌1985年1月26日、
竹中は神戸の山口組新本部の上棟式の後、
大阪府吹田市のマンションで、
待ち伏せていた一和会 二代目山広組系組員に銃撃され、
意識不明のまま翌27日に死亡した。

竹中に同行していた若頭・中山勝正(豪友会会長)も射殺され、
山口組は短期間の間に、再びトップとナンバー2を失う事態となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/竹中正久

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