【天野光晴】東京電力を訪問し、福島への原発誘致を提案。★★★
(1952年)福島県梁川町(現伊達市)出身で東電会長にまで上り詰め、
"東電の天皇"とも称された木川田一隆(きかわだ・かずたか)は
常務だった52年ごろ、
福島県議の突然の訪問を受けた。
後に国政に転身し、
建設族の実力者となる天野光晴(あまの・こうせい)だった。
天野は福島県庁建て替えの寄付を募り、電力会社を回っていた。
「双葉町出身の天野と木川田と、同郷同士
『通訳のいらない付き合い』が始まった」。
天野の元秘書
塩谷憲一(しおや・けんいち)(64)が明かす。
自伝によれば、天野は60年代初め
「浜通り(地方)の電力開発で地域振興をする」
との構想を抱く。
原子力に意欲的な木川田と
こんなやりとりを交わした。
「オレの郷里はどうだ」
「条件がとてもいい。頼む」
https://web.archive.org/web/20160301143714/https://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_18.html
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天野は
福島第一原発から数キロの
新山町(現双葉町)で生まれた。
自伝によると、
父親は町長代理助役を務めていたが、
旧制双葉中(現双葉高)の誘致運動に私財を投じて
破産寸前まで追い詰められた。
借金の抵当に入れていた田畑を失った。
天野は18歳のころ、
福島市にセメント瓦工場を建てて移り住んだ。
警察官や保険外交員などの職を転々とし、
県議を経て33年、
2度目の挑戦で衆院議員に初当選した。
51歳だった。
「開発が遅れた福島県を何とかしたい」
と心に決めていた。
自らの選挙区は
県北地方から郡山市にかけての中通りだった。
しかし、旧本県3区の
双葉郡内の集まりにも
まめに顔を出した。
塩谷は
「古里への愛着が特別に深かった。
自分の選挙区での約束を断ってでも
双葉郡に行くことがあった」
と思い起こす。
所属する自民党・河野派の同志に、
わが国の原子力開発に深く関わった人物がいた。
後に首相となる中曽根康弘だった。
天野が初当選した衆院選で
応援に来てもらって以来の付き合いで、
中曽根が旗揚げした派閥にも参加した。
■阿武隈総合開発
「浜通りには魚はたくさんいるが、勤める場所がない。
(原発でつくった)電気を東京に売り、
その金で生きていくしかねえんだ」。
塩谷は
天野の口癖のような言葉が忘れられない。
天野が思い描いたのは、
原発に不可欠な水の供給源である海と、
手付かずの広大な敷地だった。
夢はさらに広がった。
「電気を首都圏に送るだけでなく、
電気を使う工場を誘致する」。
阿武隈山地から浜通りにまたがる地域を振興させる
「阿武隈総合開発」だ。
天野が
生涯を懸けて情熱を注いだ構想だった。
その頃、東電は
原発の建設用地を探していた。
30年には本店社長室に
原子力発電課を設置した。
天野は周囲に話した。
「東電はとてつもなくでかい会社だ。
持ってくれば、みんなの生きる糧になる」
当時、東電の副社長は木川田一隆。
36年に社長に就く。
天野の選挙区にある
梁川町(現伊達市)出身だった。
2人は
切っても切れない関係になっていく。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/11/post_2549.html
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また中曾根首相の友人で民活推進の中心メンバー、
野島吉郎・東京興産 社長、
横山修二・大京観光社長らの業者でつくっている
「住宅産業政治連盟」も
1110 万円を国民政治協会、
天野光晴建設大臣などに配っている。
そして「土地規制の緩和を要望、
思い切った政治力を期待」していま す。
(朝日新聞 1986 年 10 月 27、28 日)
https://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/landprice/Hayakawa1987_jiageya.pdf
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国有地の払い下げで一財産築いた小針は、
その資金で労使紛争に揺れるワンマン社長・
織田大蔵が経営する福島交通の株を取得し、
1972年社長に就任。
河野派を引き継いだ運輸大臣の中曽根康弘と
中曽根派の天野光晴が小針の社長就任を工作した。
http://www.data-max.co.jp/2008/04/post_1009.html
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