ヘルムート・コールが西ドイツの首相に就任。★
(1982年10月04日)ヘルムート・コール首相は98年に退任するまで、
ドイツにおける移民の役割は大きくないと言い続けた。
「外国人」が既に人口の9%近くにまで
膨れ上がっていたにもかかわらずだ。
移民から目を背けてきたドイツは、
出稼ぎ労働者ら移民たちの社会への統合を阻むルールを作ってきた。
彼らをよそ者扱いすべく、
厳しい市民権取得条件が設けられた。
一方で「血統主義」を重んじ、
祖先にドイツ人がいるロシア人などは
簡単に市民権を取得することができた。
コールが退任して
ゲアハルト・シュレーダーが首相になった後、
市民権の取得条件は緩和されていった。
だがそれでも問題の解決には程遠い。
ドイツ最大の少数民族グループであるトルコ系住民の一部が
政治や芸術、ビジネスの世界で成功してはいるが、
単一文化的なドイツ社会で孤立しているトルコ系住民も大勢いる。
彼らの多くは、市民権の取得や社会参加にほとんど関心を示さない。
自分たちに対する偏見が今も残っていると感じているからだ。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2010/10/post-1754.php
バイエルンの財務官吏の3番目の子としてカトリック教徒の家庭に生まれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘルムート・コール
まず、父コール元首相と
息子の関係に亀裂が入り始めたのは、
首相の最初の妻ハネローレさんが自殺した
2001年頃からだった。
「母の死を知ったのは、
父からではなく
秘書からだった」
とヴァルター氏。
さらに、
現在の妻マイケ・コール・リヒターさんと再婚した2008年頃から
父と息子たちの関係は
ますます悪化していった。
息子たちは再婚について
何も連絡を受けていなかったし、
招待もされなかった。
https://news.yahoo.co.jp/byline/norikospitznagel/20170628-00072617/
コール氏は1930年、
カトリックの家庭で生まれた。
第2次世界大戦の終盤、
戦況が極度に悪化したドイツでは、
子供まで徴用されていた。
コール氏も14歳で動員されたが、
翌年、戦わずして終戦。
一方、兄は戦死している。
戦後はギムナジウム(中学・高校に相当)に戻り、
16歳でCDU(キリスト教民主同盟)に入党した。
政治歴は長い。
66年にはラインランド・プファルツ州の州首相、
73年からはCDU党首、
82年にはSPD(社民党)から政権を奪取。
その後、
89年にベルリンの壁が落ち、
90年、ドイツ国民悲願の東西ドイツ統一が成った。
この日々がコール氏の人生のハイライトであったことは間違いない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52102
ドイツ統一後、
負債や失業率の高さに苦しむ首相。
統一前の方がよっぽど豊かだった西ドイツにとっては、
東ドイツと一つの国になったことで
自分たちの資産を失ったようなものでした。
国民の「統一」に対しての理想と
現実のギャップが激しかったのが伝わります。
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