東田第一高炉で火入れ。(官営八幡製鉄所)

(1901年02月05日)

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明治政府の殖産興業のスローガンの元、
日清戦争に勝利した日本は、
1895年(明治28年)に製鉄事業調査会を設置し、
翌1896年3月30日の製鐵所官制を発布した。

そして1891年(明治24年)の本格的な建設開始を経て、
1901年(明治34年)2月5日に
東田第一高炉で火入れが行われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/八幡製鐵所#.E6.B2.BF.E9.9D.A9
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日露戦争の明治37年(1904年)ごろでは、
26万〜28万トンの需要に対して
20万〜30万トン(需要の約80%)を輸入に依存しており、
このため、国際収支の赤字の大きな部分を
鋼材輸入が占める状態が慢性的 に続いた。

このような背景のなかで、
明治政府は年間約6万トンの
鉄鋼一貫製鉄所を建設することを決め、
明治34年(1901年)、
官営八幡製鉄所が完成した。

当時、業界最高水準であったドイツから
設備を輸入し、
国の歳出の約1割にあたる巨額の投資を行った。

その後、官営八幡製鉄所は
次第に生産を増加し、収益もあがっていたが、
依然、国内需要の過半は
輸入に頼らざるをえなかった。(p.81-82)

日露戦争終了後から
大正3年(1914年)の
第一次世界大戦発生前後に至るまでは、
日本経済は重工業の勃興期であり、

この間、大手鉄鋼メーカーが相次ぎ設立され、
鉄鋼生産も飛躍的に伸び、

明治29年から大正3年にかけての18年間で
銑鉄は6万5000トンから
46万9000トンへと約7倍に増え、
国内生産が輸入を含めた総供給に占める比率は
40%から64%へと急激に上昇し、
国産鉄鋼が輸入品と肩を並べるようになり、
大正4年には日本の鋼材生産高も
輸入鋼材を初めて上回った。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/coj1975/27/1/27_81/_pdf

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