収穫人戦争 (カタルーニャ反乱)

(1640年05月)

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カタルーニャの「国歌」である「刈り取り人」は
1640年に勃発したハプスブルク家統治に対する
「カタルーニャ人の反乱」を題材にしている。

https://synodos.jp/international/17238

戦争の発端は、
三十年戦争の間フランスと戦っていたスペイン王国が、
カスティーリャ軍をカタルーニャに駐留させていたことにある。

カスティーリャ兵は
前線となったカタルーニャの法秩序を無視し、
農民の家に火を放ったり作物をだめにするなど、乱暴狼藉を働いた。

加えて、スペイン王フェリペ4世の宰相オリバーレス伯爵は、
対フランス戦争において戦費調達のため、
カタルーニャの資源・資産を搾取し続けていた。

1640年5月、
ジローナの農民たちがテルシオの駐屯地を襲撃した。

6月7日、カタルーニャ農民らは収穫に用いる鎌を手にして、
カスティーリャ軍駐留地を攻めた。

彼らは、復活祭から63日後に祝われるキリスト聖体祭に
蜂起したのであった。

そのため「血塗られた聖体祭」(Corpus de Sang)と呼ばれている。

農民たちは
『キリスト教信仰が長くあり続けますように!』、
『主よ、スペイン王が長生きしますように!』、
『我が国土が永年続くように、
そして邪悪な政権が死に絶えますように!』
というスローガンを掲げていた。

中央政府の言いなりで悪政を強いていたカタルーニャ副王サンタ・コロマ伯は、
バルセロナの港から逃亡しようとしていたところを捕らえられ、殺害された。

農民らの蜂起はやがて都市をも巻き込み、
はじめはカスティーリャ兵を標的としていたが、
次第に貴族や大地主らを襲撃するようになった。

彼らが編成した不正規軍はミケレ(Miquelet)と呼ばれた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/収穫人戦争

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