ソビエト社会主義連邦 成立

(1922年12月)

十月革命によって成立したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を前身とした、1922年に成立し、1991年に解体消滅した連邦国家である。

1922年5月にはレーニンが脳出血で倒れ、命は取り留めたものの影響力は急速に低下した[14]。4月にはスターリンがロシア共産党の書記長に就任、党組織を掌握し始めた[15]。8月にはソビエト政権の統合のための委員会が設置され、スターリンが主導者の一人となった。スターリンは9月に各政権が自治共和国として、ロシア・ソビエト社会主義共和国連邦に加入するという統合形式を発表した[9]。この意見はグルジアの反対を除いて採択されたものの、各共和国にとっては不満の残るものであり、レーニンの指導によって10月の中央委員会では、各共和国が対等な共和国として連邦に加入するという形式が定められた[16]。しかしこの修正ではザカフカースの3共和国が一旦連邦となってから加入することが定められたため、グルジアでの猛反発を招いた(グルジア問題)[16]。反対派は次第に追い詰められ、これによって成立したザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国が成立している[17]。
12月には第1回全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日にロシア・ソビエト連邦、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国、ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国、ザカフカース・ソビエト連邦の4国が平等な立場で加盟するとしたソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された[14]。この連邦には各国が自由な意志で参加・脱退できると定められており、新たな最高機関の設立も決定された。1924年1月31日には最初のソビエト連邦憲法が成立している[14]。
1924年にレーニンが死亡したが、生前にはスターリンとトロツキーの対立を憂い、スターリンを警戒するようになっていた[15]。スターリンはまずトロツキーを孤立させ、次いでレーニンの側近だったグリゴリー・ジノヴィエフやレフ・カーメネフ、カール・ラデックらを攻撃した。1927年にはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフを党から除名したことで、明らかな優越者としての地位を確保した[15]。
外交面では連合国の直接干渉自体は無くなったものの、ソビエト政権が旧ロシア帝国の債務支払を拒否したため、関係改善は進まなかった[18]。一方で国際的に孤立していたヴァイマル共和政]下のドイツはソ連と接近し、賠償の相互放棄を定めたラパッロ条約の締結となった[19]。ドイツ軍はソビエト領内で軍事開発を秘密裏に行い、ソ連はそれによって情報を取得するという関係も築かれた[19]。この後、中東諸国や中華民国との国交が成立したものの、1925年にはロカルノ条約の成立によってドイツが西欧諸国側になったと受け止められた。これに対してソ連は東欧諸国やフランスと不可侵条約を締結することで対抗しようとした。一方でコミンテルンは各国の共産主義運動を支援する世界革命を目指していたが、一国社会主義を唱えるスターリンの勝利によって、その運動はソ連を守るためのものとなった[20]。

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