カントによる神の道徳論的証明
(1788年)フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼし、その影響は西田幾多郎など日本の哲学者にも強く見られる。
カントは理論理性によっては神の存在を証明することはいかなる方法でもできないと考えた。この点でまずデカルトやアクィナスの存在証明とは質を異にする。カントの証明の特質は、たとえ理論理性では神の存在の証明が不可能であるとはいえ、道徳的実践の見地からすると、実践理性の必然的な対象である最高善の実現のためにぜひとも神の実在が“要請”されねばならない、とした点にある(『実践理性批判』)。
カントによれば、道徳法則に従うことが善である。道徳法則に従った行為をなしうる有徳な人間は最上の善をもつ。しかし、有徳であるだけでは善は完全でなく、善がより完全であるには有徳さに比例して幸福が配分されねばならない。徳とそれに伴う幸福との両立が完全な善としての最高善である。しかし、まずもって不完全である人間が最高善を実現するためには無限な時間が必要である。永遠に道徳性を開発せねばならないことから、魂の不死が要請される。また、この徳と幸福の比例関係は神によって保証されねばならない。そのため神の存在は道徳的実践的見地から要請されねばならない、とした。したがって厳密に言えばカントは神の現実存在を決して証明したわけではない。この要請論をヘーゲルが「ずらかし」として批判したのは有名である(『精神現象学』)。
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