ドイツ・ロマン主義の時代(〜1830・50年)

(1780年)

フランスのジャン=ジャック・ルソーの著作がドイツに伝えられたことで始まったドイツのロマン主義は、さらに再びフランスに逆輸入される形でその花を開いた[4]。フランスのロマン主義運動はオノレ・ド・バルザック死後の1850年代以降勢いを失い、シャルル・クロス等の小ロマン派を除いては[5]その座を写実主義、自然主義、高踏派等に譲ることになるが[6]、その影響はヨーロッパ全域に広まり、世紀末から20世紀の初頭の後期ロマン主義にまで及んだ。ロマン主義を信奉する傾向や集団を指してロマン派 とも呼ばれる。

キリスト教的教条主義から表現を解放したロマン主義は、教会の指導から世俗権力に政治的主導権が大きく振られる過程と時を同じくし、王権神授説によってその正統性を保障されたブルボン王家からフランス革命によってその権力が離れ、ナポレオンによってフランス帝国がヨーロッパ全体に伸張する過程でブルジョアジーに支持され、普及した。

1851年のルイ・ナポレオンのクーデターによりブルジョアジーの関心は急速にロマン主義からはなれ、科学的経済的進歩の競争に向けられるようになった。フランス革命によって刺激された国民意識の形成は、東欧・北欧・スペイン・ドイツなどの諸民族が同様に民族主義的な文化的国民性及び民族としての一体性を強く意識させた。ドイツにおいては領邦国家に分裂した社会及び近代世界の克服がドイツにおけるロマン主義の主要な主題のひとつであり、これは民族共同体の意識が強かったオリエントへの憧憬や教会と神聖ローマ帝国のもとにあった中世への懐古と結びついた。こうしたドイツにおける保守化・伝統回帰の傾向は特にナポレオン戦争後のウィーン体制・正統主義を背景とした後期ロマン派に顕著である。

フランス革命のイデオロギーとなった啓蒙思想が、いわば無時間的、無歴史的な理性 ー つまり古代のギリシャ人にあっても18世紀のフランス人にあってもかわることの無い理性 ー を原理にし、フランス軍はその理性を旗印に — つまり、その理性をドイツ人にも押し付けようとして ー ドイツに侵入してきたのだが、それに抵抗するドイツ人は、ドイツ民族には中世以来の歴史のうちで培われた独自の民族的個性があると主張し、それぞれの民族の歴史的生成過程の重要性を強調した。こうした思想がドイツ・ロマン派の芸術運動に結晶する。

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