ラウル・デュフィ「対戦の終結」

(1915年)

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1914年6月、サライヴォに親善訪問中だったオーストラリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド大公がセルビアの無政府主義者に暗殺されたとき、オーストラリア・ハンガリーは事態の沈静化のための外交努力を拒否し、兵力を動員したが、これに抵抗して、セルビアを歴史的に庇護してきたロシアも同様の処置をとった。その直後にドイツの動員がはじまり、フランスとイギリスも数日のうちに戦争に巻き込まれていった。大国のうち、イタリアだけが1914年8月の時点では中立を維持した。オーストリア・ハンガリーとロシアの軍隊は困難な情況を決する力をまったく欠いていたために、戦争の中心はきっかけとなった事件からは遠くはなれた場所に移った。8月と9月に、ドイツの軍隊はベルギーを一蹴してフランス国境防衛部隊の裏をかき、パリを大砲の射程距離におさめる地点にまで到達した。短期戦の予想は、最初の冬を迎えて両軍が塹壕を掘りはじめた時点で消え失せ、4年に及ぶ、想像をこえるむごたらしい大量殺戮がはじまったのである。フランスのプロパガンダの特徴は、戦争に対するフランス(つまりヨーロッパ)文化の擁護とみなしていたことだった。保守勢力はこの機会をとらえ、立体派をドイツ文化に結びつけて国際的な前衛芸術を攻撃した。モダニスムのあらゆる要素は事実上「敵と通じている」というわけだった。愛国主義の圧力のもとで、この種の策略は功を奏し、45歳のアンリ・マティスが軍隊に入隊を志願したり、結核患者のアメデオ・モディリアニが実際に入隊したりした。かつてパリのカフェでおなじテーブルについたフランスとドイツの芸術家たちのなかにも、愛国主義の呼びかけにこたえる者がいた。彼らの多くは、かつてその内部でみずからが反抗したはずの体制のために武器をとった。この問題の動機はもっと複雑なものだったとはいえ、このときの戦争参加がその後何年もの間決定的影響をもたらしたのはあきらかだ。どちら側にせよ、塹壕にこもった芸術家のほとんどは人命のおどろくばかりの浪費と、生きのこった者達の希望を打ち砕いた軍隊の暴力に、ただちに幻滅するほかはなかった。ダダへとむかった者もあった。彼らはダダのうちに、文化のナショナリズムへの嫌悪の表現と、あらゆる既成の約束事を問い直す急進的で根源的な試みを見いだす事になる。

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