フーゴ・バルがベルギーへと旅立つ

(1914年11月)

フーゴ・バルはミュンヘンでカマーシュピル(室内劇)劇場の演劇監督などをしていた(1912年)バルは総合芸術制作へのカンディンスキーの関心と彼自身の演劇状の実験とのあいだの共通性に気づくようになり、表現主義の画廊デア・シュトルムで前衛絵画の展覧会を組織するのに力を貸したりしていた彼はまた、過激な政治雑誌「革命」(1913−1914年)の共同創刊者でもあった。妻のエミー・ヘニングズは詩人で舞踏家で歌手でもあり、詩の朗読の専門家(ディズーズ)として知られていた。彼女はミュンヘンでバルト出会い、結婚して彼の協力者となった。戦争が勃発すると、彼女はドイツで徴兵から逃れようとする人々のためにパスポートを偽造し、そのために一時刑務所に入れられたことがあった。バルの方は軍隊に志願したが、身体検査で不合格になり、戦争をその目で見ようと1914年11月にベルギーへと旅立った。そこで見いだした現実を容認できず、ベルリンに戻ると、バクーニンやクロトポキンら無政府主義者の理論家達の著作を読んで触発され、反戦活動を始めた。バルの活動に加わったのが、文学好きの医学生リヒャルト・ヒュルゼンベックだった。

コメント