「ヴァーグ」ギルド会館での「ダダの夕べ」

(1916年07月14日)

バルとツァラがそれぞれの宣言を朗読したが、それはダダとは何かを説明するように見えて、この問いへのいっさいの回答をあえて避けるものだった。観衆を苛立たせ、混乱させる事にかけて、2人は一流の技量をもっていた。バルの宣言はさらに徹底した音響詩を導入し、既成の言語を無視するという音響詩の性格を強調した。彼はこう説明している。
「言葉が姿をあらわす。言葉の肩、脚、腕、手だ。アウ、オイ、ウー・人はそれほど多くの言葉を外に出すべきではない。詩の一行はこの呪われた言語にしがみつくすべての猥雑さを取り除く機会となる。まるで株の仲介人達の手でそこに置かれたかのような言語、貨幣ですべすべにすり減った手だ。私は言葉がおわり、そして始まる場面に存在する言葉を欲している。ダダは言葉の心臓だ」

ツァラの「アンチピリン氏の宣言」はもっとはっきりと戦闘的な形をとっていた。このテクストは一見支離滅裂な主張ではじまっていたが、よく考えるとありとあらゆる既成の約束事への明確な挑戦となっていた。
ダダはスリッパも平行線もない生活だ。それは統一に反対し賛成する。未来には断固として反対する。われわれは賢いからよく知っている、われわれの頭脳が柔らかいクッションになりつつあり、われわれの反ドグマ主義がお役人と同じくらい排他的で、われわれは自由を叫ぶが開放されてはいないことを。ダダはヨーロッパ的な弱さの枠組みの中にとどまっている。そいつはまだクソッタレなことだが、これからわれわれは芸術の動物園を領事館の万国旗で飾り立てるために、いろんな色のクソをしたいのだ。これがダダのバルコ二ーだ。私はみなさんに保証する。ここから、みなさんはあらゆる軍隊の行進が聴こえるし、天使セラフィムのように空を切り裂いて公衆浴場に降りてきて、小便をして放物線を理解する事ができる。

当時「フランス軍に死にいたるまで血を流させる」というエーリヒ・フォン・ファルケンハイン将軍のヴェルダンでの戦略がキャバレ・ヴォルテールでの生活にも浸透していたが、ツァラの攻撃性の鋭さはそうした外部の世界の恐怖によって納得できる以上のものだった。
これらの宣言は、バルとツァラのあいだのギャップが広がっている事を暴露した。バルによる音響詩のパフォーマンスは彼の内面に潜む宗教的欲求をふたたび目覚めさせたので、彼はチューリッヒを立ち去る時が来た事を悟り、ヘニングズとともに1916年の後半にはスイスのアスコーナに引きこもった。
「アンチピリンの宣言」は、チューリッヒ・ダダのリーダーシップがツァラに移った事を印象づけ、ツァラはしだいにダダ・サーカス団のライオン使いの役割を享受するようになる。

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