コレラを退散させるための獅子頭・神剱の巡行(神輿講中エリアまで、そのニ)
(1862年07月12日)文久二年七月十二日 (1862年)
この年の六月中旬、江戸で麻疹が流行、その後、コレラとも思える(諸説あり)病気がはやる。そのため、悪疫退散のために、獅子頭・神剱が氏子町内+関係宿村を練り歩いた。
重要なことは、安政五年の記述よりさらに、巡行した神輿講中のエリアが広がっていること。
また、1858年の、鹿嶋田家文書にある御霊之宮講中エリアよりさらに広い範囲が記載されていること。
巡行したエリアについては、画像を参照。
なお、四之宮講中田無とか、四之宮講中砂川については、田無・砂川が四之宮講中だったのか、四之宮講中に加えて田無や砂川を回ったのかははっきりしない。
しかし、管理人が推測するに、他の講中エリアは、この表から読み取れるように別途巡行しているし、四之宮の講中エリアは概ね、府中の西南方向だということを考慮すれば、さらにそこから田無や砂川まで一日で行って帰ってくるということはまず難しいかと思われる。
やはり、田無や砂川も講中だったと考える方が自然かと思う(ただし、四之宮の講中エリアは、もっぱら府中の西南方向なので、その意味では講中だったのか?という疑問も生じる)。
なお、本文記述は、大部分を
「幕末期の六所宮社中と神輿講中」高橋 美貴氏(東京都教育委員会 文化財の保護 第42号 2010年3月)
「府中市域にみる安政五年・文久二年のコレラ騒動」花木 知子氏(府中市郷土の森博物館紀要 第25号 2012年3月)に拠っています。
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