比留間家文書より

(1892年)

明治25年

江戸期からの新宿の名家であり、六之宮の輿家(こしいえ)であった比留間家文書より、祭礼に関する部分の記述

五月四日 曇

前第八時福田ヤ来り高張丁ちんを見る、連光寺、佐野分張かへ之事ヲ丁ちんヤニきゝ合スル積り、六ノ宮ノ手丸モ同人ニ注文之事話ス。

八まん宿、本町ニテも山鉾出来せりト申事。

六ノ宮神輿舁之義ハ福田ヤヘ頼ミ同家にテ取扱呉ルゝ筈

月番会所ハ蕪木常吉方。

太鼓之置場ハよし本安五郎家屋取毀ち跡ニ飾り付たり。

母及金太郎佐野ノ倅三雄等丁ちん見物ニ出かける。

小倉金太郎ニ竹ノ子弐本ヲ為持、猿渡ニ白丁借用ニつかはし候

五月六日 曇又雨

白丁ヲ着せしは下石原ノ伊三郎ナリシ

神輿かつぎ十七人来レリト、連光寺ハ来ラズ、小田分之処も多磨村一円本町之講中トナルニ付名前ニ出せし云々、右ハ関田庄太郎斡旋ニヨルモノ云々。

管理人解説:
上記は、五月四日五日の日記のごく一部で、大半は、比留間家の日常業務(府中および近郷からの来客・相談・訴訟などの取りまとめ)。祭りだけに関わっていられない状況であることがわかる。

また、江戸期からの六之宮輿家として、明治になってからも(新宿町が五六之宮を担当後も)、六之宮に関しては、深くかかわっていたことがわかる。

この頃は、各町が太鼓を持っていたが、山車は持っておらず、四日に提灯を使った行事ないしは、飾り付けがあったかと思われる。

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