1870年(明治三年)牛年 御神用払方

(1870年)

1870年(明治三年)牛年

御神用払方

大國魂神社(武蔵総社六所宮)文書より。
神輿などにかかった費用を抜き出しました。

金弐両三分 御神輿繕ひ ぬし屋払

九月に臨時祭というのがあった模様。翌四年にも記載。

神輿・太鼓・御旅所関係の費用で書いてあるのは、上記だけ。

この年の出来ごと

1月3日 神道国教化強化の大教宣布の詔(※)
明治維新派、尊王攘夷が合言葉で、国学者をその理念的後ろ盾にしていたために、明示当初は、この王政復古が濃厚に現れた。その後は、富国強兵という遅ればせの帝国主義建設という現実路線に変換。

9月19日 平民に苗字使用を許可(四民平等)
お宮の文書を見ると、もっと前から苗字が現れるが。

10月18日 岩崎弥太郎、九十九商会設立
言わずと知れた、「三菱」。

11月3日 徴兵規則領布(府藩県一万石毎に士族平民を問わず5名宛徴募の制となる)

12月24日 士族といえども特定以外の帯刀を禁ず

※Wikipediaより
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする国家方針を示した。

明治維新後、復古神道を奉じる平田派の国学者を中心に祭政一致論が高まり、明治2年7月8日に神祇官内に宣教使が設置され、宣教長官に中山忠能・同次官に福羽美静が任命された。福羽は神祇官が神祇省と改められた後には事実上の最高責任者である神祇大輔を務めている。

続いて、この詔書が出され、「治教を明らかにして惟神の道を宣揚すべし」という理念が打ち出された。直接的にはキリスト教を排撃し、宣教使による神道振興と国家的保護を打ち出している。だが、廃仏毀釈による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、更に欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なって神道国教化の動きは不振が続き、明治5年3月14日(1872年4月21日)の教部省設置と宮中祭祀の切り離し、宣教使の廃止によって大教宣布は見直しを迫られることとなり、大教宣布の路線の再建・強化を目指した大教院が翌年に設置されることとなる。

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