八基の神輿を再興(新調か?)
(1819年05月)文政二年(1819年)
武蔵総社六所宮神輿再興(修復)。八基の神輿を新調した模様。
当然、当時としては、神社が全部負担してのことだが、町内や講中からの寄付もある。既に、講というものがあった証拠でもある。
新宿からの寄付がない。いかに貧しかったかを窺わせる。
八幡宿からの寄付は、神領からの寄付に入っているのであろう。
また、修復につき、江戸の職人を使っていることもわかる。
府中市立郷土館紀要 第10号
江戸末期における府中六所宮の例大祭について 遠藤吉次氏(学芸員)より
「御神用幷御神輿再興勘定帳」
御神輿八社再興諸掛り
金四両弐朱ト七百参拾文 御神輿掛り 大工百十九人手間代
金三分二朱ト四百七十七文 同断大工扶持米代 壱石壱斗九升
金弐拾壱両 御神輿八社 ぬりかへ一色 ぬしや四ツ谷御門外 浅井庄兵衛
金壱両壱分 同断 かのじ三社直し 諸雑用心付共ニ
金一分 庄兵衛ヘ祝儀
金一分 同人弟子両人ヘ祝儀
金拾六両三分ト七百文 御神輿八社 御金物通り一色 外ニすず四振直し 滅金代共
四ツ谷伊賀町 錺師(かざりし)伊三郎
金壱分弐朱 飾師両人ヘ祝儀
金壱両 飾師諸雑用
惣〆金四拾五両三分弐朱ト壱メ九百拾壱文
勧物集金
金壱両弐分 榎戸村源蔵
金壱両 本町氏子中
金壱両弐分 番場宿氏子中
金弐分 下染谷村兵右衛門
金弐分 同村源兵衛
金弐朱ト五百文 関前村(現武蔵野市)十六人講中
弐百文 下染谷村庄兵衛
弐百文 八王子寺町与助
金壱分 神領分三両之内 禰宜村惣百姓
金壱両 同 雑用代 神主奉納
外ニ
金壱両壱分 馬場焼木払 嶋屋
金壱分 御供灯灯奉納料 下小金井村 喜三郎
関前村(現武蔵野市) 文四郎
宿河原村 磯右衛門
右受取候分
〆金七両三分弐朱ト九百文
内金 七両三分弐朱ト九百文引
残而 金参拾八両ト壱メ拾壱文 御入用不足
金百壱拾六両弐朱ト八貫三百廿九文 御神用金有高
金拾四両弐朱ト壱メ百十七文 御神用払残金
二口
〆金百三拾両壱分ト九貫四百四十六文
内金 三拾八両ト壱メ拾壱文 御輿御入用不足分引
残而
金九拾弐両壱分ト八貫四百三拾五文 御神用金有高
すなわち、費用は八基合わせて四十五両三分二朱と一貫九十一文であった。このうち地元の氏子や周辺村々よりの寄付が七両三分二朱と九百文程あったものの、残り三十八両と一貫拾一文、つまり八割以上は社頭の神用金から支払われているのである。なお、この神用金は、社家や社僧の無住物成金や賽銭の一部を積み立てたものである。ただ、その額はさほど多いとは言えないが、地元府中宿の氏子以外、たとえば榎戸村・下染屋村・関前村・八王子町・下小金井村・宿河原村等より、神輿の再興に際し寄付が寄せられている点は注目すべきであり、文政五年(1822年)二月の「御神用勘定帳」にも、「御神輿御修復料巳年受取之覚」として、
六月七日
壱メ弐百廿四文 上染屋講中
金弐分弐朱ト七百三十文 番場宿奉納皆済
内五百廿四文 松本屋ニ而酒代
金弐両弐分弐朱ト五百十二文 本町奉納
金壱分弐朱 代田橋講中
〆金三両弐分弐朱ト壱メ九百四十弐文
とあり、上染屋や代田橋の者が講をつくり寄付に応じている。
※「壱メ」のメは「貫」のこと
※ 本文のまま。例えば、染谷・染屋など。
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