コレラを退散させるための獅子頭・神剱の巡行(神輿講中エリアまで)
(1858年08月24日)安政五年八月二十四日
この年の六月、長崎でコレラが流行、以後、三都でも流行。多摩地区でも、程度の差こそあれ、確実に被害者が出ている。そのため、悪疫退散のために、獅子頭・神剱が関係宿村を練り歩いた。
本町・番場・新宿から、氏子安全祈祷のために、神剱(お蛇丸)と獅子頭の巡行を執行して欲しいという願いに応えて、八月二十四日、所領の八幡宿や是政村などを加えた周辺の宿村を、金棒に先導された神剱と獅子頭が巡行。「氏子安全御祈祷神剱・獅子頭巡行之節御初穂勘定書」(大國魂神社文書)には、祈祷と巡行に関わる費用の収支が記されている。
巡行地区は、八幡宿・新宿・番場・屋敷分・本町(分梅・芝間・矢崎を含む)・下河原(連光寺村枝村)・是政(禰宜村含む)。延べ八時間の巡行。
興味深いことには、神輿講中のエリアまでこの巡行が行われていることである。
安政五年九月十日、「神主二ノ宮神輿連中」(梶野新田・下連雀村・野川村・井口新田・関野新田・野崎村・境村)を巡行。今の、武蔵野市・三鷹市・小金井市にまたがる。このあたりは、今は、三之宮講中だが、昭和36年以降、二之宮の講中が、三之宮の講中に変化した(※)ことを考慮すると、実に、この時期に、今の二之宮・三之宮につながる神輿講中が組織されていたことが推測される。
本年二月の鹿嶋田家の、御霊宮神輿講中の拡大を図る文書と併せ、非常に興味深い。
なお、文久二年(1862年)にも、コレラ(とも思われる)の流行に対して、神剱と獅子頭の巡行が執行されている。この時は、氏子と二ノ宮講中のエリアに加えて、四ノ宮・御霊宮の講中エリアにも巡行されている。
※ 昭和35年、唐櫃渡御に加えて、昭和36年、二之宮は神輿を出さなかった。その為に、二之宮講中の中で、その年から三之宮に移ってしまった講中がいる。
なお、本文記述は、大部分を
「幕末期の六所宮社中と神輿講中」高橋 美貴氏(東京都教育委員会 文化財の保護 第42号 2010年3月)
「府中市域にみる安政五年・文久二年のコレラ騒動」花木 知子氏(府中市郷土の森博物館紀要 第25号 2012年3月)に拠っています。
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