相州高座郡森村から六之宮講中参加希望もドタキャン

(1885年05月)

府中新宿比留間七重郎日記(武蔵府中叢書3)をあらためて読んでいたら、以下を発見。

明治十八年四月廿八日
旧十九大ク(区)八小ク相州高座郡森村榎本金次郎六ノ宮江講中加入いたし度六七名之由申越候所不参勿論急之事故白丁出来兼高張てうちん壱張渡候約之所不約ナリ同所郡役所ハ黒塀天王院ト申

という記述がありました。

相州高座郡森村は、添付あたりのようです。今の相模原市大野。

上記文章ですが、
6~7名で来るという話だったが、結局来なかった、白丁は間に合わないので高張灯提一張りを渡すという約束だったのだが、という趣旨のようです。

明治13年、すでに八基の神輿が四ケ町に振り分けられていましたので、江戸期からずっと六之宮旧輿家だった新宿比留間家は、明治18年時に輿家としての責務はないはずなのですが、日記を読むと、講中に関する記述が散見されます。
これは、明治30年以降もそうです。

まぁ、六之宮のメイン講中が小田分、押立、是政で、そこに親戚づきあいが多かった比留間家がずっとかかわりを持っていたのでしょう。

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