【渡辺芳則】五代目組長を襲名。

(1989年04月27日)

1989年(平成元年)3月、
一和会との抗争が終結。

同年4月16日、
山口組舎弟会で、
渡辺芳則を
五代目山口組組長に推すことが決まった。

同年4月27日、
五代目山口組組長に就任した。

組長在任中は
若頭・宅見勝らの方針もあり
警察との対立を避け、
ブロック制導入などの
合理化・統制化を勧め
拡大路線を推進し続けた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/渡辺芳則

組内でシノギがバッティング

こうした史上最悪の対立抗争を経て、
渡辺は1989年4月、
5代目山口組組長に就任した。

この年の年末には
東京証券取引所で
平均株価は3万8915円の
史上最高値を記録するなど、
当時はバブル景気の絶頂期だ。

全国の暴力団業界も、
それまでの賭博や違法薬物の密売、売春などの伝統的なシノギから、
地上げなどの不動産関係、金融業など表経済にも進出していった。

「それまでは考えられなかった
桁違いのカネが動くようになって行った」

と、バブル期から活動している
指定暴力団幹部Cが述懐する。

しかし、間もなくバブルは崩壊。

表経済の苦境は
暴力団業界にも押し寄せてきた。

それでもカネの動きに嗅覚が働く経済ヤクザは、
様々な「表経済」にシノギを求め続けたが、
「同じ山口組内で
シノギがバッティングすることが多くなって行った」
(指定暴力団幹部C)という。

そこに「怨念」が生まれたのだ。

「例えば、大規模な不動産開発があった場合、
地域住民への迷惑料として
地元対策費などが予算化される。

当然ながら、総工費が大きければ
対策費も大きな額になる。

ある案件で偶然にも、
山健と弘道が
同じシノギをしようとしていたとする。

このように
山口組内部で双方が手を挙げバッティングしたら、
5代目裁定となり、(組長の渡辺は)
出身母体の山健に有利になる裁定を下していたようだ」(同前)

当時、山口組内部では
「山健組にあらずんば、山口組にあらず」
といった声が聞かれたように、
こうした状況は
5代目山口組体制の間は続いていたという。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191217-00020298-bunshun-soci&p=3

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