【中曽根康弘】プラザ合意 (蔵相は竹下登) ★★

(1985年09月22日)

money_strong_yen.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/プラザ合意

「NHKスペシャル・戦後50年「その時日本は」
第12巻 プラザ合意 円高への決断」

より、以下、文字起こししたものです。↓

———————

山室英男
「戦後50年。この間、わたくしたちは、
日本の将来を決定するような
いくつかの重要な選択をしてきました。
最終回は、日本に急激な円高をもたらした
プラザ合意を取り上げます。
それは、ここニューヨークのプラザホテルで始まりました。」

-プラザホテル (ニューヨーク)-

山室
「1985年、昭和60年の9月。
ここに、日本、アメリカ、西ドイツなど、
先進5ヶ国の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まりました。」

-白と金の間-

山室
「彼らは、戦後の世界経済を支えてきたアメリカのドルを安くする
歴史的合意をします。
いわゆるプラザ合意です。
この頃、日米の貿易不均衡は戦後最大となって、
この摩擦を回避するためには、円とドルの為替レートを調整することによって、
日本の貿易黒字を減らすしかないと、日米は考えていました。
しかし、プラザ合意は、その後、日本に、
まったく予期しない、天井知らずの円高をもたらし、
結果的に、巨額の不良債権を生むような、バブル経済を招くことになりました。
なぜ、急激な円高が始まっのか、
プラザ合意の何が誤算だったのか、日米の通貨外交を検証してみたいと思います。」

-ニューヨーク-

戦争が終わって40年目の昭和60年。

日本経済の育ての親アメリカは、日本に脅威を抱くようになっていました。
日本者を叩き壊す労働者。
昭和40年には3万台だった日本車は、20年後、300万台を超えていました。
アメリカめがけて輸出することで、繁栄を実現した日本。
繊維、カラーテレビ、鉄鋼、そして自動車。
日本製品がアメリカを占領します。

この年、日本の貿易黒字は、世界最大の560億ドル。
その8割がアメリカとの貿易でした。
日本批判が頂点に達します。

————————
The NewYorkTimes Magazine

Theodore H.White:
THE DANGER FROM JAPAN
————————

そのひとつ、「日本からの危機」(セオドア・ホワイト著)。
アメリカを代表するジャーナリスト、ホワイトの論文です。

”戦争に勝ったのはどちらだったのか。
日本の激しい貿易攻勢で、アメリカ産業は壊滅寸前である。”

セオドア・ホワイト (昭和60年インタビュー)
「日本にはこれだけは覚えていてほしい。
アメリカは敗戦後の日本を飢餓から救ってやった。
技術者をアメリカに招いて機械の作り方を教えてやった。
日本はその技術でアメリカに逆に攻撃をしかけている。
アメリカの寛大さにも限度がある。」(4:50)

-昭和60年4月9日 首相官邸-

中曽根康弘首相(当時)
「国民の皆さんにお願いを申し上げたいと思います。
1人に2万5,000円買っていただければ、
120億ドル、輸入が増えるわけです。
外国製品を、国民の皆様、ぜひお買いくださいと。」

中曽根康弘 (官邸日記 3月26日)
「日米経済摩擦。アメリカ側より日米危機説しきりに来たり。
アメリカ人の心理読みきれず、日米戦争起きる。
日本こんにち優位にあり。
改心すべきこと、大幅に譲っても不合理でない。」

中曽根
「いやこれはもう、ほんとに大変だと思いましたね。
それでまあ言い換えれば、
経済の日米戦争開始、みたいなことになりましたよね。」

首相は、政策ブレインに、相談を持ちかけていました。
霞友会館。
さまざまな政策を協議したこの部屋で、
元大蔵官僚の細見卓(元大蔵省財務官)氏から
一つの提言がなされます。

細見
「劇薬療法ですよ。
いやだから、黒字対策で、黒字に対する批判がね、
激しいんで、なんかいい政策ないんだろうかというんで、
すぐやれることだったらね、円高放置しかないと。」

”劇薬療法”、”円高”とは、
円とドルの為替レートを、円高・ドル安にすることでした。
当時、1ドルは250円。
ドルを安くし、円を高くすると、日本製品の輸出価格は上がり、
一方、アメリカ製品は割安になり、輸入が増え、
貿易黒字が減る、という考え方です。
しかしそれは、輸出産業に痛みを伴う荒療治でした。

中曽根
「今までは円高は悪であると、円安がいいんだと、
で、円高になったら、伝染病にあったみたいにやられちゃうぞと、
そういう心配ばかりしておったんです。
そんときに、日本経済全体考えたら、
これは、円が高くなることは認めなくちゃダメだと。
そのところを破ろうと。壁を破ろうと。」

6月、首相の決断を実行に移す好機がやってきました。
東京で、通貨制度の国際会議が開かれ、
アメリカの首脳がやってくるのです。
中曽根首相は、一人の官僚を官邸に呼びました。
通貨外交を担当する大蔵省の、大場智満財務官でした。
首相は、円高のための日米協議を検討するよう命じます。
しかし、大場財務官は、円高・ドル安の実現は、難しいとみていました。
大場財務官は、円高にするには、日本とアメリカが
共に為替市場でドルを売り、円を買う、
市場介入が必要だと考えていました。
しかしアメリカは、市場介入を、かたくなに拒み続けていました。

大場
「アメリカに変わってもらわなければいけないんじゃないかと。
しかし、我々が何もしないということではなくして、
我々も、できるだけのことはしましょうと。
こんな考え方だったわけですね。
ですけども、日本側に、主たる理由があるわけではないと。」

しかし、アメリカは突然変化します。
6月19日、ひとりのアメリカ財務省の高官が、大場財務官を訪ねてきました。
通貨外交を担当する(ディビッド・)マルフォード(財務)次官補です。
マルフォード次官補が、突然話を切り出します。
貿易不均衡を治す新たな政策協議を始めないか。
大場財務官は、すかさず提案します。
市場介入を協議してみてはどうだ。
即座に返事が返ってきました。
OK。財務長官に伝えよう。

大場
「弾力的な対応をしてるということがわかったんです。
つまり、アメリカの財務省の首脳のですね、介入についての考え方が、
変わってきたと。いうことに驚いたんですね。むしろ。」

そのわずか三日後、ベーカー財務長官が竹下大蔵大臣を訪ねてきます。

-6月22日 竹下・ベーカー会談-

竹下蔵相は、ベーカー長官に、ドルを安くしないかと説得しました。
意外にも、ベーカー長官は、日本の提案に同意しました。

-ワシントン-

ベーカー長官は、日本訪問の一ヶ月前、すでにドル安への決意を固めていました。

ベーカー
「ドル高を放っておくような為替政策を完全に変える必要がありました。
議会の保護主義の炎を、消さねばならなかったのです。」

強いアメリカ、強いドルを掲げ、国民の人気を集めようとしたレーガン大統領。
強いドル。ドル高政策で、貿易赤字は、一気に膨らんでいきました。(12:30)
それでも大統領は、ドル高を放置し続けます。
議会の政権批判が、日増しに高まっていました。
政権の危機を感じたベーカー長官は、強いドルの放棄を決意、ドル安作戦の検討が始まりました。
しかし、財務省のスタッフは、為替市場を動かすことは容易ではないとみていました。

マルフォード
「市場介入を行えば、ドルが安くなるというのは、尊大な考えです。
市場はコントロールできません。
為替を動かすには、”政策協調”が必要でした。」

ベーカー長官たちは、ドルを動かすには、二つの戦術が必要だと考えました。
市場介入、そして政策協調です。
「政策協調」とは、相手の国の政策に注文をつけ、
約束したことは守ってもらおうというものです。

マルフォード
「日本には、もっと国内での消費を増やしてもらう必要がありました。
そのためには、減税をやってもらい、景気にテコ入れしてもらうことが重要でした。
そうなれば日本は、輸出に振り向けた分を、国内で消費するようになり、
さらに、輸入も増えるので、貿易不均衡は解消する、私達は、そう信じたのです。」

円高ドル安を共に合意した日本とアメリカ。
日本は、市場介入を重視していました。
一方、アメリカは、政策協調のほうが重要だとみていました。
日米合意のウラに、微妙なズレがあったのです。

-7月23日 パリ-

日米の間で、協議か始まりました。
場所はパリ。
7月23日、大場財務官とマルフォード次官補は、密かに集まります。
レーガン大統領が、五年にわたって維持してきた強いドルは、本当に安くできるのか。
会談の冒頭、マルフォード次官補が、日本を驚かせます。
ドル安の協議を、日米から、西ドイツ、フランス、イギリスを巻き込んだ
先進五ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議、いわゆるG5に広げようというのです。

大蔵省副財務官(当時)近藤健彦
「9月にG5を開いて、はっきりとした合意を出したいと、おっしゃいまして、
日本側は、強烈な印象を受けたというか、はっきりいってビックリしたと。」

マルフォード
「私たちは、市場を驚かせることが重要だと考えました。
そのためには、先進国のすべてが、市場を大きくする意志があることを、
しかも、協力して市場を動かすということを示す必要があったのです。
そのような説得力のある行動ができれば、
ドルを5%から7%動かせるのではないかと思ったのです。」

-9月15日 ロンドン-

先進5ヶ国は、密かに集まりました。
このとき、マルフォード次官補は、また驚くべき提案をします。
為替市場に衝撃を与えるため、G5を公表しょうというのです。
一国の経済を左右する通貨外交は、国家の最高機密で、
特にG5は、それまでその存在さえ隠されてきました。

大場
「それまで秘密にやってきた5ヶ国大蔵蔵相会議をね、
その、オープンにしちゃうってことですから。
いろいろあと大変だなと思ったんですけど、
この、強いドルを、弱いドルに変えると、いうことのためにはね、
えー、メディアの力を借りようと、いうことにしたんです。」

G5の開催は一週間後、9月22日の日曜日。
場所は、ニューヨークのプラザホテルと決まりました。
ただし、当日まで、開催は極秘とされました。
ロンドンから帰国した大場財務官は、すぐさま日本銀行を訪ねます。
日銀は、市場介入の実務を担当します。
どのタイミングで、どのくらいの金を投入するかは、日銀の判断に任されます。
当時の総裁は、澄田智氏。
澄田総裁は、はじめて計画を知らされました。

日銀総裁(当時)澄田智
「国際金融、あるいは通貨、為替という、そういう面においてですね、
えー、大きな、その、会議だと、大きな意味を持つ会議だと、
大きな影響を与える、将来、大きな影響を与えることであろうと、
いう風には、すぐ感じました。」

会議の前日、9月21日。
竹下蔵相は、千葉県成田で、ゴルフを楽しんでいました。
マスコミの目を逃れるためのゴルフでした。
竹下蔵相は、成田空港へ直行します。

大蔵大臣(当時)竹下登
「まあ、ただ、飛行機に乗りましたら、
澄田日銀総裁が、マスクしてね、乗ってらっしゃいまして、
みんな苦労して、行ったわけですよ。」

午後三時すぎ、大蔵省と日銀の一行は、
誰にも気づかれず、日本をあとにします。
ニューヨーク・マンハッタンの中心部に建つプラザホテル。
世界の通貨を動かす男たちが集まりました。
会議の焦点は、ドルをどの程度切り下げ、他の通貨をどれだけ切り上げるのか。

9月22日、午前11時30分、
会議に先立ち、マスコミを前にして行われた記念撮影です。
これまで秘密のベールに包まれてきた通貨外交が、はじめて姿を現した瞬間でした。

会議が開かれた「白と金の間」。
ドルを切り下げる議論が始まります。
まず、アメリカが用意した市場介入の計画が示されました。
そこに記されていたドルの切り下げ幅は、10%から12%でした。
このとき1ドルは240円。
円(レート)は、218円から214円となります。
しかし、実際そんなにドルを安くできるのか、出席者の多くは自信がありませんでした。

大場
「あのときはその、10%、ドルに対してねぇ、
円とかマルクを強くするってのは、こら大変だなという。
事実、大変だったんですけどね。
んー、そういう感じが先だったですね。」

竹下蔵相が発言します。
自らを「ストロング・エン・ミニスター」、「円高大臣」と紹介し、
「円は、他の通貨より大きく切り上がってもよい」といいました。

竹下
「わたくしは、頭の中には、今だから言えますが、
20%ぐらいの感じはありました。200円。はあり得ると。」

円高ドル安へ会議をリードする竹下蔵相。
アメリカの中央銀行FRBの(ポール・)ボルカー議長は、
後に、こう記しています。(ボルカー・行天共著「富の興亡」)

”彼は、我々が考えていたのより、はるかに前向きであった。
竹下蔵相の態度が、他の参加者を驚かせたのは確かであり、
会議の成功に、重要な影響を与えた。”

しかし、日本が本気で円高を推し進める気があるのか、他の国はまだ疑っていました。
ドイツ連邦銀行のペール総裁が、日本に注文をつけます。

大場
「さぁ、あした最初に日が昇るのは日本だと、
さぁ、日本、介入をやってくれよって言ったわけですよ。
わたくしのすぐ隣りにいたわけですけどね。
で、そこで、そうはいかないんだと、
あしたは日本では秋分の日だと、言ったわけですよ。
だから、ドイツから頑張ってくれって言ったわけですよ。
そうしたら怒りましたね。我々を難詰するわけですよ。
で、おそらく、その、竹下大臣も、それから、澄田総裁もね、
ものすごく介入には積極的になってくんですけどね、
それはあのペールのね、んー、毒舌がやっぱり効いたのかなと。」

5時間後、介入計画がまとまりました。
期間は、翌日の9月23日から6週間。
見込まれる介入総額は、180億ドル。
およそ、4兆3,000億円。
そのうち、30%ずつを、日米で分担する。

会議後の記者会見です。
市場介入についての発表は、一切ありませんでした。
あえて隠すことで、市場が思惑をめぐらし、
介入に過剰反応することを狙ったのです。

しかし、一言だけ、為替レートについて発表しました。
ドル以外の主な通貨の切り上げ、ドル安が望ましい。
強いドルは、果たして安くなるのか。
G5は、息を詰めて翌日を迎えます。

プラザ合意のニュースは、即座に世界を駆け巡りました。
日本に知らせが入ったのは、その日の深夜でした。

ミッドランド銀行東京支店為替資金本部長(当時)小口幸伸
「一体、最初は、どういうことだろうなというのが
正直な気持ちでしたね。
それが一体どんな意味を持つのか、全体の意味ってのは、
当然、その時は、自分ではわからなかったですね。
ただ、いずれにしても、売り材料だと。」

9月23日月曜日。
最初に市場が開くニュージーランドのウェリントン。
ドルは下がりました。
1ドル=239円から、234円へ、5円の急落です。
シドニー、香港、シンガポール、ドル安の流れが続きます。
そしてヨーロッパ。国家の市場介入が始まりました。
ロンドンでドルはさらに下がって、1ドル=(233円から)230円。
続くニューヨーク。1ドル=231円から始まりました。
アメリカは、2億5000万ドルのドル売り介入を実施、225円まで達します。
日本の為替ディーラーたちは、休日を返上して、海外市場でドルを売り浴びせました。

小口
「ドル売りドル売りドル売りで、
実際その、ためにドンドンドンドン下がってくわけですからね。
見てて、スクリーン見てて、ドンドンドンドン下がってくと。
だから〜、やっぱり、こうなんてんですかね、
まあ、興奮というか狂気というか、非常にもうとにかく
あ〜その、のめり込んで、」

9月24日、祝日明けの東京。
日本が介入を開始します。(日本銀行為替課)
1ドル=229円で始まりました。
日銀の介入で、228円まで下げます。
しかし上げの勢いが強く、232円に戻されました。
日本の石油会社など、輸入業者が円高ドル安になると、
輸入代金に充てるドルを、より多く買えるようになるため、ドル買いに殺到したのです。

日銀為替課(当時)小倉泉
「ぜんぜん相場が下がらなかったという印象はありますね。
それだけその日本の企業が大きくて、
実重がすごく多いんだなという印象が非常にありましたね。
ですから、最初の日にもう、介入をすることで
相場を動かすということは非常に大変なんだと、いう印象は受けましたね。」

ニューヨークから帰国した大場財務官たちは、報告を聞いて落胆しました。

大場
「まあ、225円にはなってるかなと。
こんな感じだったんですよ。
それで成田に着いたら、230円だってんでね、
ガッカリしたことを憶えていますね。
これは大変だなと思ったんすよ。」

日本の介入額は、最初の一日でおよそ12億ドル。
2,500億円あまりに上りました。
しかしドルは下がらず、40銭のドル高で終わりました。

政府と日銀は、円高に誘導するため、発言を繰り返します。
いわゆる口先介入です。

日銀総裁(当時)澄田智
「円高方向に、来ている、
しかし、なんといってもまだ一週間のことではありますし、
まあ、あの、おー、もう少し円高になってもいいんではないかと、
こういうように思っておりますので。」

中曽根
「円を強くしていくという方針は、これは我々の不動の方針でありまして、
今後も努力していく対象ではあります。」

2ヶ月後の11月、円高の流れは定着。
1ドル=200円台に達しました。

竹下
「僕はあの、ほんとは、200円ちゅうのは、
一年がかりぐらいかなぁという感じが、まあ、ありました。
1ヶ月とかね、だからそれはスピードが早かったなと。」

昭和60年暮れ。
円高は止まり、横ばい状態に入ります。
日米か共に目論んだ円高ドル安は、予想以上に成功しました。

12月30日の中曽根首相の日記。

”年間、対米経済摩擦に苦悶し、汗をかいた。
来年は、一部収穫の年である。”

しかし、首相の期待は裏切られます。
翌年、プラザ合意は、次々に誤算をきたし、
やがて異常なバブル状態を招くことになるのです。

年明けて1月24日、最初の誤算が始まります。
引き金は、竹下蔵相の発言でした。

小口
「このロイターのニュースの欄に、竹下がセットと。200円も。」

画面に流れたのは、『竹下蔵相が190円台の円高も容認』というニュースでした。

前日、アメリカを訪問していた竹下蔵相は、
ニューヨークの空港(JFK国際空港)で、記者の取材を受けていました。

竹下
「そのときに、200円がどうなりますかという質問があったことに対して、
199円と201円は大差がないと言ったのが、
200円を切ることを許容した発言だというふうに取られましたから。」

この発言で、市場は一気に200円を突破。
急激な円高が始まります。
プラザ合意は、為替市場の性格を大きく変えていました。
政治的に作られた円高ドル安の流れ、
市場は、政府高官の発言に、過敏に反応するようになっていたのです。
急激な円高に、政府は衝撃を受けました。
2月22日の中曽根首相の日記です。

”G5のときは、212円を当初目処とし、次いで、202円をmaximとしたが、
179円まで来た。明らかに早期切り込み過ぎである。”

中曽根
「それ以上は、日本の産業は、耐えられないと、
つまり、円高が徐々になってくんならいいんです。

んーまあ、半年から一年ぐらいかけて、
一割ぐらい、上がってくんならいいんですが。
急にパーって来るっていうと、産業は追いつけない。」

しかしこの時の円高は、まだ序の口でした。

プラザ合意から半年たった昭和61年3月17日、
円は、戦後の最高値を更新します。

「輸出競争力が無くなる!」

輸出中心の地場産業からまず悲鳴が上がります。
円高不況が始まりました。

鉄鋼、造船など、重厚長大産業は、大規模な合理化に踏み切りました。

円高を呪う声が、日本全国に満ちていきました。

大場
「竹下さんは選挙応援なんかに来てくれるなって言われるし、
澄田総裁と私のうちにはもう、脅迫電話ですよ。
いろんな、いろんな電話がありました。
ん、たしかに、大変だなと。中小企業は大変だなと、思ってはいたんですけどもね。
ん、まあしかし、乗り越えてくれるんじゃないかなと、
いう気持ちもまた、ありましたね。」

中小企業は、円高と必死に戦っていました。
大阪の、従業員400名ほどの産業機械メーカーです。
当時、この会社が輸出して採算の取れる為替レートは1ドル=200円でした。
円高で収益は急速に悪化します。

松井製作所社長松井治
「せっかくこれ、80年、70年以上続いたこの会社を
ここで倒産さしてしまうんじゃないかと、いうような、
晩、夜中、寝れない時期が、続きましたですね。」

前の年の昭和60年、利益は7億円ありました。
それがこの年、8,000万円。十分の一に減りました。
乾いた雑巾を絞れるだけ絞るというコストダウンが、全国の工場で始まります。
中曽根政権の足元が揺らぎ始めます。

国会議員
「円相場の安定のため、もっと積極的な手段を取るべきではありませんか!
まったく市民に任せて放任するつもりですか?
それでは日本経済は不安定化するばかりです!」

批判は、政府与党である自民党内部からも吹き出しました。
その急先鋒が、宮沢喜一自民党総務会長でした。

宮沢
「で、そんなにね、大きなその円高を目論んでいたのなら、
それに対する予算とかね。対応がなきゃいけませんよね。
そうじゃなくって、あれあれ、あれよあれよという間に、
こういうことが起こっちゃって、で、もう、民間じゃあこれはもう、
ほんとに一生懸命やろうとするとまた翌日、バーが上がっちゃうような、
走り高跳びでいえば。ですからもう、
一種の絶望感みたいになって、政府は何にもしない。」

中曽根首相は、円高推進から、一転して、円高阻止を決断。
アメリカに協力を求めました。
しかし、このときアメリカは、日本の願いとは逆の態度に出ます。

(昭和61年)4月11日のアメリカの新聞(WSJ)、
ベーカー長官と会談したイギリスのローソン蔵相の発言です。

”日本以外の国は、一層の円高を求めている。
ベーカー長官も同じ考えだ。”

さらに10日後、今度はレーガン大統領が発言しました。

「ドルはもっと下がるべきだ」

日本と協調してプラザ合意を進めたアメリカ。
なぜアメリカは突然、日本の苦境に追い打ちをかける発言を繰り返したのでしょうか。
その原点は、プラザホテルにありました。
プラザ合意では、市場介入の他に、もう一つ約束がなされていました。
アメリカが重視した政策協調です。

”プラザ合意声明文” (36:59)

アメリカは日本の輸出を減らすため、日本が景気を拡大し、
消費を増やす内需拡大の政策を要求していました。

日本はその手段として、民間活力の導入、金利の引き下げを匂わせていました。

”金融政策の弾力的運用”

プラザ合意から8ヶ月。
円高が進んでも、日本の対米貿易黒字は、一向に減っていませんでした。
アメリカは、日本の内需拡大の政策が不十分だとみました。

マルフォード
「私たちは日本にこう伝えたのです。
日本が景気を拡大し、消費を増やすことができないなら、
アメリカは、円高ドル安になるのを認めるしかないと。
円高ドル安を放置すれば、日本は不安になります。
私たちは、円高放置を、日本に協力を求める交渉の手段としたのです。」

日米の協調は崩れ、日本は孤立していきます。
円高を食い止めるためにやれるのは、日本単独の市場介入でした。
中曽根首相は、大蔵省に指示します。

大蔵省国際金融局長(当時)行天豊雄
「その、円高に対して、何もしないと。
ただ手をこまねいてるてことになってしまいますから、
これはその、非常に率直に申し上げて、国内の政治的な環境から無理でしょうね。
で、したがってじゃあ、できるものは何かっていえば、介入しか、なかったわけですよ。」

しかし、単独の介入では、効果がありませんでした。
アメリカの協力なしには、円高は止まらない。
日本は思い知らされます。

「大蔵大臣、宮沢喜一。」

7月。大惨事中曽根内閣が発足。(昭和61年7月22日)
中曽根首相は円高対策のため、宮沢氏を大蔵大臣に起用しました。
円高批判をしてきた宮沢氏が、日米の通貨外交の最前線に立たされました。

9月。宮沢蔵相は、ベーカー長官と会うため、ひそかにアメリカに飛びました。

-サンフランシスコ-

1ドルは、150円にせまる勢いでした。
ベーカー長官は、再び日米が協調するための、2つの条件を出してきました。

日本はもっと内需拡大すべきであった。
減税を行い、補正予算を組んで公共投資を増やし、金利を下げて、景気を拡大してほしい。

————————
ベーカー長官の要求

・減税
・公共投資の増額
・金利の引き下げ
————————

宮沢
「ほいで、ベーカーに言ったんだけど、補正はすると。
しかし、今年はもう9月だから、大きな補正はできないって。
それにその、こういうことについて、
国債を出さなきゃならん、減税をしなきならんてな話は、
とても僕はその、三月やそこらじゃ、財政当局、説得できない。」

赤字国債を出しても、アメリカの要求を飲むしかない。
宮沢蔵相は決意しました。
しかし、大蔵官僚の壁が立ちはだかります。
官僚たちは、大規模な補正予算には反対でした。
田中首相の列島改造以来、大量の赤字国債を抱えていたからです。

宮沢
「ところが、大蔵省の主計局の連中がですね、
こんなにこう不景気で、税収が減ってる時に、
赤字国債出したり、減税したりして、
ますます減っちゃったらどうすんですかと、財政はと。
というから、私は、随分議論しましたよそれは。
こういうときこそ、ちゃんと思い切ってやって、
日本経済の円高に、対応できたら、必ず税収増えるから、
ここはもう俺に任してもらわないと困ると。
いう議論を、ずいぶん何度もやりましたね。」

結局、内需拡大の財政政策として、3兆円規模の大型景気対策が組まれました。
公共事業の増額は、5,400億円。
その内訳は、一般の公共事業と、災害復旧費でした。

————————
61年度の災害復旧など事業費

・当初予算 874億4,100万円
・追加予算 4,160億2,100万円
・計 5,034億6,200万円
————————

ところが、金額の多い災害復旧費は、来年度予算の前倒しでした。
アメリカが望んだ新たな公共事業の増額は、1,300億円。
赤字国債の発行を避けるため、大蔵省が練り上げた苦肉の策でした。

1ヶ月後、アメリカの要求に応えるため、日本銀行も行動に出ます。
金利を安くする公定歩合の引き下げでした。
プラザ合意以来、公定歩合の引き下げは4度目。
3%という史上最低の水準に成りました。
この引き下げは、日銀にとって苦渋の決断でした。
預金金利が下がり、金が有利な投資先を求めて溢れ始めていたからです。
少し前、三重野副総裁が国会で証言しています。

三重野
「ご案内の通り、株、土地の値段、ゴルフの会員権、絵画まで値上がりを示しています。
将来のインフレの芽が育ちつつあるという意味で
公定歩合を動かすべきでないと考えております。」

プラザ合意から1年。
東京の住宅地の地価は、この時、30%以上値上がりしていました。
ビルを建てるため、住宅が壊され、地上げが進みます。
バブルの影が忍び寄っていました。
日本の内需拡大策を、アメリカが高く評価しました。
為替の安定をうたった日米合意が発表されます。

-昭和61年10月31日 日米共同声明 発表-

宮沢
「プラザ以来の話、だいたいこれで、んー、目的は達したと。
こっちから言やあ、もうこれ以上、円高はないと。」

この合意を期に、為替相場は一時期、1ドル=160円台まで戻ります。
しかしこの3兆円の景気対策が、せっかく築いた日米協調の足を引っ張ることになるのです。

(政府が経済対策閣僚会議を開き、公共事業の追加、住宅3万戸など、
3兆6000億円の総合経済対策を決定http://bit.ly/2Abfrjw)

(大蔵省は、吉野良彦次官を中心に抵抗したが、
結局、9月中旬に、総額3兆6000億円の総合経済対策を閣議決定した。
http://bit.ly/2jH7dZy)

2ヶ月後の昭和62年1月8日、アメリカ(連邦)議会。

ベーカー長官
「ドル安は妥当なものだ。」

ベーカー長官は、日米合意をくつがえす発言をしました。
あの景気対策が、見せかけであるということに気づいたのです。

ベーカー
「あとでわかったことですが、あの景気対策には、
多くの奇妙なお金が含まれていました。
それらは、日本の内需拡大につながらないものでした。
大蔵省は、最初から問題のある景気対策を作っていたのです。
あのときには、私たちとしても、日本が協力してくれるよう、
最善の行動を取るしかなかったのです。」

日米の協調は、再び崩れたのです。
市場は、ただちに円高に反応しました。
日本は90億ドル、1兆4,000億円にも上る介入を実施します。
しかし、10日後の1月19日、150円を突破しました。

宮沢(当時)
「…が続いていくことは、大変に心配なことですね。それは私もよくわかってる。」

中曽根首相は、宮沢蔵相を、急きょ、アメリカに派遣します。

中曽根
「急激な円高をとどめようと。ベーカーと話をしょうと。そういうことでした。」

聞き手
「ただあの、宮沢さん、当時まるで手土産がなかったわけですよね。」

中曽根
「うん。彼、英語がうまいから、話すのうまくいくんじゃないかと思った。」

-昭和62年1月21日 ワシントン-

交渉の下準備をする時間はなく、訪米が成功するかどうかは賭けでした。

記者
「そのあと、去年の合意の確認と。」

宮沢
「さあねぇ、それはもう難しい話で。
とってもやってみなけりゃなんともならんのですよ。」

宮沢蔵相は、ひたすら苦境を訴えます。

宮沢
「これじゃあ、どうしょうもないなぁと。
また150(円)に戻っちゃって。
10月の声明と、ちょっと違ったことになってきてるじゃない。
なんかしてもらわないと困るなぁと、いうことで、
まったくその、なんていうかなぁ。まぁ、陳情ベースみたいなもんですよね。」

ベーカー長官は、為替安定化の引き換えに、またもや内需拡大を迫ってきました。
宮沢蔵相は、新たな財政政策を打つことを決意します。
しかし準備には時間が必要でした。

-日本銀行-

アメリカがせまる内需拡大。
すぐに動けるのは日本銀行だけでした。

-2月23日 公定歩合2.5%に引き下げ。-

5度目となる公定歩合引き下げに踏み切ります。
公定歩合がついに、2.5%になりました。
バブルの影に怯えながら、日銀は、円高阻止を優先させたのです。
しかし、17日後、アメリカの貿易赤字が、
過去最高の1,400億ドルになったと発表されました。
円が上がり始めます。
このとき、日本とアメリカが協調して、円高を止めようと市場介入に出ました。
しかし、円高はさらに進み、140円を突破します。

”US$ 137.50”

小口
「取引量が、プラザ合意を一つのきっかけにして、
その後、もう急激に東京市場での取り扱いが増えたんですよね。
ですから、経験がなくても、とにかく、ドルを売ってりゃあ、いつか儲かると。
こんな簡単な商売はないみたいなね。
中央銀行も介入だけでは、力対力では、とてもその、
対抗できるような規模の市場では、すでになくなっていたっていう。」

東京市場は、プラザ合意以降、急拡大していました。
取引高は、3倍に膨れ上がっていたのです。

宮沢
「きょうはもうひとつやりましょうかと。
まあ、20億ドルぐらいありますから、
20億ドルっていうと、3,000億円ですからね。
大変な金ですよね。
それで、夕方になって、
やりましたけどもう、ブラックホールに金つぎ込むようなもんで。」

聞き手
「介入ですね。」

宮沢
「なんの反応もないって。
それでまあ、夜、会合に行って、
みんなまあ恨めしそうな顔してみますわなぁ。
ほんとつらかった。」

このとき、澄田日銀総裁は、アメリカFRBのボルカー議長から、
さらなる公定歩合の引き下げを打診されていました。
それに対して、澄田総裁は、こうつぶやいたといいます。

”enough is enough” (いい加減にしろ)

もう十分だ。

澄田
「その、2.5%という公定歩合はですね、
これは日本としては当時、今まで経験のなかった一番低い公定歩合ですしね。
だから、もう2.5%を、さらに下げよう、あの時あの段階で
下げるっていう気持ちは、毛頭ありませんでした。」

公定歩合の引き下げを、内需拡大策として使うのは、もはや限界でした。
中曽根首相は、円高を食い止めるには、本格的な財政出動しかないと考え始めていました。

日記に残された、当時の中曽根首相のメモ。

”4兆5,000億円。減税。財政赤字。財源探し。”

緊縮財政の中、内需拡大のための財源に悩んでいた様子がうかがえます。
このとき、政策ブレインの一人、元日銀理事の中川幸次氏から、
財源についての試算が届けられました。

——————————
3.内需拡大と財政再建は両立できる。

1)当面、財政再建を後退させない限度で、思い切った減税・社会…
行い、景気浮揚を図る。

2)それを可能にしうるのはNTT株等民営化に伴う株式売却代金の大…
である。
——————————

”内需拡大と財政再建は両立できる。”

その根拠として挙げられていたのが、NTT株の売却代金でした。

前年の(昭和)61年秋、
1株119万円で売り出されたNTT株は、折からの株ブームに乗って、
この頃、300万円を超える高値をつけていました。

5兆円の収入が、国庫に入ると中川氏は予測。

”税の増収も期待できる”

”最終的には、1兆円前後の自然増収を生ずる情勢
(いずれも土地と株がらみの増収)”

元日銀理事 中川幸次
「今にして思えばその、これだけ自然増収があった時に、
んもう景気もよくなりかけたんだと。
いうように思って、しかるべきだと思うんですけど、
その当時は、それよりもまだ世間で、円高不況という声が
非常に圧倒的に強かったわけですから。
その方に、押されたってことでしょうね。」

-産業機械メーカー(大阪)-

この頃、政府の読みと違って、
企業の多くは、円高に適応し始めていました。
コストダウン。円高による輸入原材料費の低下。
あの大阪の機械メーカーも、採算の取れる為替レートを、
1ドル=200円から130円にまで下げました。

この年の利益は、円高不況前とほぼ同じ6億円に戻りました。

”6億2,837万190円”

円高不況を脱し始めた日本経済。
そして忍び寄るバブルの影。
そこに、アメリカの要求に応える
戦後最大の景気対策が行われようとしていました。

-首相官邸-

5月。大蔵省から原案が上がってきました。
その規模は、5兆円でした。

中曽根
「大蔵省、官房長官が持ってきたのが、
5兆円ていうのを持ってきた。
で、それを1兆円増やしてやった。
鉛筆で5兆を6兆に直した。
それであっと驚いた。世の中の人は。」

景気対策は、1兆円の減税を柱とする過去最高の6兆円。
あの円高を認める発言は止まりました。
内需は急拡大します。
株、絵画、土地転がし、マネーゲームが日本列島を覆います。
高級品が飛ぶように売れ、貿易黒字は減少していきました。

-東京臨海副都心 建設予定地-

好景気がずっと続くと信じ、巨大開発が相次ぎます。
しかしそれは、バブルという、うたかたの内需拡大でした。

宮沢
「私も何度も考えてみるんですけれども、
とにかく日本経済は青色吐息で、死ぬかどうかってんで、
いろんなことを薬、注射したりなんかやっててですね、
そのときに、これが将来、なんかの災いになるだろうなんて考える余裕はない。
あんときから、あんときこういうふうに、このスクリューを回せばいいと、
いうようなタイミングていうのは私にはやっぱり考えられないなぁ。」

戦後、経済最優先の道を突き進み、世界の脅威となった日本。
貿易立国として生き延びるため、日本は円高を政治決断しました。
平成2年。バブルが崩壊すると、貿易黒字は再び増加に転じ、
円はさらに上昇していきました。
日本は今、不良債権をはじめとするバブルの後遺症と戦いながら、
再現のない円高から脱する道を探し続けています。

以上。

コメント