(私の視点)臓器移植法改正 人道的精神問い直す条文に 朝倉あさみ

(2009年06月11日)

004502009年06月11日朝刊オピニオン101901138文字臓器移植法の改正4法案が、今国会の衆院本会議で採決されようとしている。改正の焦点は15歳未満からの臓器提供の可否だが、この論議のほかに、1958年の角膜移植法成立以来、全く触れられてこなかった問題について提起します。
19年前、当時10歳の長男が交通事故で脳死宣告を受け、心停止後、本人の意思でなく角膜を提供した。この7年後、アイバンク支援活動に携わる中で、臓器移植法の「基本的理念」を掲げた第2条の3項に疑念を抱くようになった。
条文には「臓器の移植は、移植術に使用されるための臓器が人道的精神に基づいて提供されるものであることにかんがみ、移植術を必要とする者に対して適切に行われなければならない」とあるが、人道的精神は提供者のみに存在し求められるものなのだろうか。
40年以上も、厳しい財政難の中、アイバンク活動を支えてきた方たちの「角膜移植を待つ方たちのために」の熱意も、人道的精神に基づくものではないのだろうか。
また、私は提供を受けた方たちの感謝の声や、その後の人生観などを聴き、胸熱く涙したが、この方たちの精神もまた人道的精神といえないだろうか。
その一方で、移植数を増すことにのみ熱心で生命倫理観の疑わしい関係者や、「提供を受けるのは当然のこと」と思う人にも会い、深く考えこんでしまった。そんな中、梅原猛編「『脳死』と臓器移植」(朝日文庫)に収められた藤井正雄氏の「生活仏教の立場から」によって、こうした人のありさまは、臓器移植がモノとモノとのやりとりとなっている状況を示すものであり、それらは人の尊厳、善意を損なうものだと気づかされた。
さらに、自身の人道的精神を問えば、どなたかのお役に立つように、の願いとともに、親のエゴイズムもあったことを、曽野綾子氏の次の一文で思い知らされた。
「臓器提供者の中に自分の愛する者の命の『断片』なりを誰かの体を借りて生かしておきたい、という思想のあることもわかった。(中略)こういう利用法は非礼である」(「新潮45」91年9月号「夜明けの新聞の匂(にお)い」)
本当の善意、人道的精神とは本人の意思を家族が尊重し、提供されることだ、という思いに至った。
臓器移植法の基本的理念に「臓器の移植は臓器提供者、臓器の提供を受ける者、それらを仲介する者、この三者の人道的精神に基づいて行われるものである」と明記されれば、臓器移植についての理解が進み、尊重されるのではないだろうか。
臓器移植は尊厳ある個人と個人のやりとりだと思う。どの立場に立とうとも、法制度への信頼ができる選択をしたい。
そのためにも、すべての人の内にある人道的精神の解釈が、次の国会において深く審議されることを希望します。
(あさくらあさみ 自営業、パート)

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