ドイツのテレビが「ランド・アート」と題する「テレビ展覧会」を放映する

(1969年04月15日)

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ディレクターのゲリー・シュムは数人のアーティストに短いシークエンスの構想作り、ないしはその監督を依頼し、それを自分で撮影した。リチャード・ロングとは約16kmの歩行をし、800mごとにカメラのスイッチを入れ、その地点の景観に歩行をし、ズームインした。スミッソンの場合は、風景のなかに設置された鏡を見せた。だがシュムがこうした展示の放映を許されたのはたった1回だった。アート番組につきものの無意味な解説を作品の映像にかぶせて流すのを拒んだためである。このほかに2回、彼は、日常の雑多で娯楽に溢れるテレビの流れのなかに、アート作品をまんまと差し挟んだ。1969年10月11日から18日のあいだ、キース・アーナットの9点の写真が大地の穴にゆっくりと消えていく様子を、1ばんにつの映像を2回、そのつど2秒ずつ、繰り返した(8時15分と9時15分)。アーナットは皮肉を交えてこう述べる。「もともと『美術品の消滅』という考えについてのコメントとして作ったものだ。論理的帰結としては、アーティストも消滅すべきだったかな」。12月には7日間、毎晩放送の最後に、ヤン・ディベッツが暖炉を見せた。放送時間内に暖炉を焚き付ける。炎が燃える、そして消えていくところを見せたのだ。どちらの作品も経過と順番を見せたが、その方法は通常のテレビとは大きくかけ離れていた。ナレーションがかぶさることもなく、説明もなかった。困惑した視聴者は自分で意味を探るしかなかった。シュムは新しいメディアに関して救世主的な情熱にかられていた。将来は美術家も作家も、物の販売ではなく出版物の権利料やテレビの再放送料で生き延びていく、と信じていた。また、現代人は主にテレビを通じて世界を知るのだから、テレビという媒体を探求し解明するのはアーティストの役割だ、とも。それはまた、政治的認識と変革の方法なのだとも。テレビ・ギャラリーをベルリンに開く提案をしていた彼は、こう語ってもいた。「テレビ・ギャラリーに登場するアーティストやアートは、どんな傾向が選ばれ、その根拠はなにか、作品の底流を成す概念が、文化と社会の変革に役立つか否かの判断だ」とくにビデオはスタジオとギャラリーとコレクターという限られた三角形からアートを脱出させる可能性をもっていた。だがアーティストたちがそんなにユートピア的な考えにくみすることはまれだった。広範囲の人々に訴求するという発送はまんざらでもなかったが、全体としては、時間をベースとした媒体でいかに概念や行為を成立させるか、そこにより大きな関心を抱いていた。

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