ギャラリー・ダダがオープンする

(1917年03月)

ハン・コレーは常設画廊に場所を提供し、ツァラとバルの共同経営であらたにギャラリー・ダダが開かれる。短命に終わった画廊ではあったが、展覧会が3度ひらかれた。最初の2度は、ベルリンのデア・シュトルム画廊から来たカンディスキーとクレーの作品を呼び物にして開催され、4月の3度目にはフリッツ・バウマン、マックス・エルンスト、ココシュカ、クビーンがふくまれていた。企画全体の雰囲気はキャバレ・ヴォルテールの気取りなさとはほど遠く、バルの政治的友人達はこの時期のダダのエリート志向とダダの夕べの入場料の高さに不満をもらした。

オープンすると、ダダの夕べには新たな協力者やその他の顔ぶれが目立つようになった。2回目の夕べはもっと野心的で、黒人ダンスと、ココシュカの「スフィンクスと麦わら男」(1909年)の初演をふくんでいた。この戯曲には、バルとヘニングズがデザインした衣装で出演した。このときの複合的で演劇的なプログラムは、その後の夕べとくらべてもきわだった内容だったといってよい。ダダの活動はこの後ダンスと音楽をふくんでゆき、全体的な表現を可能にする領域へとひろがってゆき、戦前の総合芸術制作の理想に接近するという予想外の結果をもたらした。

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