【GHQ】「ドッジ・ライン」を実施。

(1948年12月)

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終戦直後は、物資が不足していたため、物価が高かった。

池田勇人は、積極財政を考えていたが、
政府やその職員が金を使う(つまり、物を買う)と、
余計に物価が上がって、庶民が物を買えなくなるので、
GHQは、緊縮財政を行うよう指導した。

この結果、物価の高騰を抑えることができ、
財政の収支も黒字となったが、
国鉄の労働者がリストラされるなど、
公共事業関連を中心に仕事が減って
深刻な不況に見舞われた。

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この結果、闇(やみ)物価は1949年初頭をピークに下落し、
物価は急速に安定したが、
さらにこれを国際物価にさや寄せさせるために、
やがて1ドル=360円の単一為替(かわせ)レートが設定された。

この為替レートは68年まで続いた。

こうしてドッジ・ラインはインフレ収束と黒字財政をもたらしたが、
反面、49~50年にかけて深刻な不況=安定恐慌が発生し、
国鉄の公社移行に伴う10万人首切りに関連したかのような
下山(しもやま)事件・松川事件、民間企業の大量人員整理などによって
民情は騒然となり、社会不安が起こった。

この恐慌の深刻化のさなか
50年6月に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)し、
日本経済は新たな局面を迎えることになる。[一杉哲也]

『中村隆英著『昭和経済史』(1986・岩波書店)』

https://kotobank.jp/word/ドッジ・ライン-105384
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1949年、ジョゼフ・ドッジが来日。

池田はドッジと協議を重ねた。

池田は、後の「所得倍増計画」に見られるような積極財政をプランし、
減税や公共投資を推し進め、
それによって戦後の復興を成し遂げようと考えていたが、
占領下ではGHQの指示は絶対で、
意に反してドッジの超均衡財政の忠実な執行者を余儀なくされた。

折角作った予算をドッジにズタズタに切られ、
3月7日にドッジ・ラインを実施。

超均衡予算を押し付けるドッジと、
選挙公約の不履行という民自党内部や各党からの批判、
「国民生活の窮迫」という国民の非難との板挟みになりながら、
1950年度予算は、収支プラス3億円の超均衝予算を成立させる。

これを「インフレではない。ディスインフレ政策である」と強調したため、
「ディス・インテリ」という不本意な渾名を付けられた。

この反動で、金づまり(デフレ)の嵐が吹き荒れ、
企業合理化による人員整理で失業者が増大し、
各地で労働争議が頻発、下山事件など暗い事件も相次いだ。

ドッジは特に公務員の大量解雇による人件費削減を池田に強く指示し、
これを実行したため、ドッジと池田に非難が集中した。

政党、労働組合、産業界、特に
中小企業からの集中砲火にさらされたが耐えに耐えた。

「池田勇人、鬼よりこわい、ニッコリ笑って税をとる」
という戯れ歌が歌われ、
池田の憎たらしい面構えの漫画が新聞・雑誌に掲載された。

行政は池田とドッジやGHQ担当者との密室で決まり、
うっかり公表すればGHQからねじこまれるため
報道関係者には一切喋れず、新聞記者からの人気が悪くなった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/池田勇人

https://ja.wikipedia.org/wiki/ドッジ・ライン
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