坂本龍馬と勝海舟と西郷隆盛の比較
年齢 | 坂本龍馬 | 勝海舟 | 西郷隆盛 |
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0歳 |
坂本龍馬生まれる(1836年01月03日) |
江戸本所亀沢町で生まれる(1823年)文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町の生まれ。父・小吉の実家で… |
薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島市)に生まれる(1828年01月23日) |
10歳 |
母・幸が死去(1846年) |
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11歳 |
右腕内側を切られる(1839年)郷中仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩… |
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12歳 |
小栗流和兵法を学ぶ(1848年)12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。14歳で高知城下の日根… |
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13歳 |
元服し吉之介隆永と名乗る(1841年) |
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15歳 |
家督相続(1838年07月27日)家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。 |
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16歳 |
郡奉行迫田利済配下となる(1844年)郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。 |
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17歳 |
剣術修行のため江戸へ(1853年)剣術修行のため江戸(東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖千葉… |
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18歳 |
土佐煮帰郷(1854年)土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。 |
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19歳 |
父・八平が死去(1855年) |
郷中の二才頭となる(1847年) |
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20歳 |
再び江戸へ(1856年)再び江戸・小千葉道場に遊学。 |
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21歳 |
山本琢磨を逃がす(1857年)盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。 |
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22歳 |
北辰一刀流免許皆伝(1858年)剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝。 |
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24歳 |
結婚(1852年)父母の勧めで伊集院兼寛の姉須賀(敏(敏子)であったとも云わ… |
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25歳 |
土佐勤王党結成(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間… |
家督相続を許可された(1853年02月)督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少し… ペリーが浦賀に来航(1853年12月)攘夷問題が起き始めた。 |
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26歳 |
脱藩(1862年03月)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した。その直後に勤王党による吉田… |
江戸詰に任ぜられる(1854年)上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江… 庭方役となる(1854年04月)庭方役となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを… 妻が実家に引き取られる(1854年11月)貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引… |
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27歳 |
神戸海軍塾の塾頭をつとめる(1863年)勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開… |
西郷家の家督を継ぐ(1855年)善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。 |
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28歳 |
神戸海軍操練所創設(1864年)神戸海軍操練所が創設された。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増… |
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29歳 |
薩長同盟への運動を開始(1865年)京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃か… |
徒目付・鳥預の兼務を命ぜられる(1857年10月)藍玉購入の斡旋(1857年11月)藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡… 密書を越前藩主松平慶永に持って行く(1857年12月)江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主松平慶永に… |
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30歳 |
薩長同盟が結ばれる(1866年01月)坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩… |
殉死しようとする(1858年07月27日)京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得さ… |
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31歳 |
海援隊創設(1867年)土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。4月、いろは丸沈没… 暗殺される(1867年12月10日)京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共… |
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32歳 |
異国応接掛附蘭書翻訳御用と就る(1855年01月18日)海軍伝習重立取扱と就る(1855年07月29日)小普請組から小十人組に組替(1855年08月07日) |
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33歳 |
講武所砲術師範役と就る(1856年03月11日)小十人組から大番に替わる(1856年06月30日) |
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36歳 |
アメリカ派遣を命ぜられる。(1859年11月24日) |
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37歳 |
品川より咸臨丸出航。(1860年01月13日)サンフランシスコに入航。(1860年02月26日)閏3月8日、サンフランシスコを出航。改元して万延元年5月6日、… 江戸に帰府。(1860年05月07日)石高400石(1860年06月24日)天守番頭過人・蕃書調所頭取助と就る。石高400石取りとなる。 |
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38歳 |
天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。(1861年09月05日) |
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39歳 |
二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。(1862年07月04日)閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1000石。 |
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41歳 |
神戸操練所運営を委任される(1864年02月05日)2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。改元して元… |
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43歳 |
町奉行次席軍艦奉行に復職。(1866年05月28日) |
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44歳 |
海軍伝習掛を兼帯(1867年03月05日) |
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45歳 |
海軍奉行並に異動(1868年01月17日)役高5000石。列座は陸軍奉行並の上。 陸軍総裁に異動(1868年01月23日)列座は若年寄の次座。 陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動(1868年02月25日)西郷隆盛と会見(1868年03月13日)3月13日と同月14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、… |
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46歳 |
諱を安芳と改める(1869年07月13日)7月18日、維新政府の外務大丞に任官。8月13日、外務大丞を免ず。 兵部大丞に任官(1869年11月23日) |
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47歳 |
兵部大丞を免ず(1870年06月12日) |
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49歳 |
海軍大輔に任官(1872年05月10日)6月15日、従四位に昇叙し、海軍大輔如元。 |
死去(1877年09月24日)城山決戦で被弾し、切腹した。 |
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50歳 |
参議に転任し、海軍卿を兼任(1873年10月25日)翌年2月18日、正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。 |
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51歳 |
正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元(1874年02月18日) |
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52歳 |
元老院議官に異動(1875年04月25日)元老院議官を辞表を提出(1875年04月27日)元老院議官を免ず(1875年11月28日) |
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64歳 |
伯爵を受爵(1887年05月09日)12月、従三位に昇叙。 |
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65歳 |
枢密顧問官に任官(1888年04月30日)10月、正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。 |
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66歳 |
枢密顧問官辞表を提出するが、翌日却下(1889年05月08日)12月、勲一等瑞宝章を受ける。 |
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67歳 |
貴族院議員に当選するものの辞退(1890年07月10日) |
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71歳 |
従二位に昇叙し、枢密顧問官如元(1894年06月30日) |
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73歳 |
枢密顧問官辞表を提出する(1896年10月27日)枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。 |
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75歳 |
旭日大綬章を受ける(1898年02月26日) |
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76歳 |
脳溢血により死去(1899年01月21日)明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日… |
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